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有楽町で逢いましょう
フランク永井のアルバム ウィキペディアから
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有楽町で逢いましょう(ゆうらくちょうであいましょう)は、日本の百貨店・そごうの宣伝キャンペーンにおけるキャッチフレーズ。1957年5月に開店(2000年9月24日閉店)した「有楽町そごう」[注釈 1]のキャンペーンとして、テレビの歌番組(同年3月放送開始)、楽曲(7月発売)、連載小説(11月連載開始)、映画(1958年1月公開)が発表された。
本項目では、関連のキャンペーンの概要および、これら関連作品について記述する。
キャンペーン概要
→「そごうの店舗一覧」および「読売会館 § 有楽町そごう」も参照
大阪府大阪市が地盤の百貨店・そごうは、東京へ進出する際、出店地候補の一つとして有楽町を検討した。1950年代前半当時の有楽町は闇市の面影が徐々に消えて、人通りが増え始めている、新興の商業地だった。そごう社内での検討の結果、有楽町駅付近への出店が正式に決定。物件探しで手間取っていたところに読売新聞が自社物件・読売会館を提供[注釈 2]。工事などの準備を終え、有楽町そごうの開店予定は1957年5月と決まった。
そごうは開店後の客足の増加・定着を狙い、有楽町全体のさらなる活性化をはかり、宣伝部長・豊原英典以下宣伝部を挙げて「有楽町高級化キャンペーン」を企画した。豊原は企画段階でアメリカ合衆国の映画「ラスヴェガスで逢いましょう(en:Meet Me in Las Vegas)」からタイトルを拝借して「有楽町で逢いましょう」のキャッチフレーズを提案し、採用が決まった。並行して、後述する各種マスメディアとの提携(タイアップ)を通じ、「有楽町高級化キャンペーン」を展開した。
キャンペーンが功を奏し、「有楽町で逢いましょう」のフレーズは当時の流行語となり、そごう開店前に有楽町の認知度は上昇した。開店初日の天候は雨であったが、30万人以上の来店客でにぎわった。
1958年当時、「有楽町で逢いましょう」という言葉は、日常でも使われる言葉になった[1]。
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テレビ番組
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有楽町で逢いましょう(ゆうらくちょうであいましょう)は、1957年4月に放送開始した日本テレビの歌番組。そごう一社提供。
楽曲
要約
視点
有楽町で逢いましょう(ゆうらくちょうであいましょう)は、1957年7月に発表されたフランク永井歌唱の歌謡曲。上記のキャンペーンを受けて作成された、いわゆるコマーシャルソング(キャンペーンソング)である。世に歌い継がれ、ヒットとなり[2]、永井の代表曲となった。佐伯孝夫作詞・吉田正作曲。
企画当初は三浦洸一が歌唱する予定であったが、作曲者・吉田正の強い推薦によってフランク永井がレコーディングすることとなった。
シングルレコード(モノラル録音)は発売から半年で約50万枚を売り上げた[3]。1968年時点での累計売上は95万枚[4]。1958年上半期のビクターの歌謡曲(流行歌)レコード売上で1位を記録した[5]。
永井はNHK紅白歌合戦において、1973年の第24回と1982年の第33回(自身生涯最後の紅白出場)で、2度同曲を歌唱披露した。
オリジナルシングル盤収録曲
セルフカバー
1962年にステレオで再録音された。前奏の編曲が異なる(モノラル盤はギター、ステレオ盤はトランペット)。フランク永井の各種ベスト盤に収録されているものの多くは、この1962年録音のステレオ盤である。
タイトル曲としての再発
1970年に『ビクター・アンコール・シリーズ』の1枚として、B面曲を「ラブレター」に変更して再発(SV-3002-M)、1984年10月21日に『ベスト・カップリング・シリーズ』の1枚として、B面曲を「夜霧の第二国道」に変更して再発(SV-8501)されている。また1975年には「有楽町で逢いましょう」のタイトルで、本曲と「夜霧の第二国道」「俺は淋しいんだ」「夜霧に消えたチャコ」を収録したコンパクト盤として再発(SVC-1018)された。
カバー
- 1970年、藤圭子 渋谷公会堂に於ける「デビュー1周年記念リサイタル」にて歌唱。同年3rdアルバム『歌いつがれて25年 藤圭子演歌を歌う』に収録。
- 2008年、「有楽町で逢いましょう」リリース50周年を記念し、フランク永井版および、他の歌手がカバーした同曲を収録した記念コンピレーション・アルバムが発売された。
- 第72回NHK紅白歌合戦がNHKホールの耐震化工事の都合により49年ぶりに東京国際フォーラムに会場を移したことから、記念として演歌歌手の山内恵介がこの楽曲をカバーした。[6]
小説
『有楽町で逢いましょう』(ゆうらくちょうであいましょう)は、宮崎博史の小説。1957年11月より『週刊平凡』で連載開始された。
当時のオリンピック需要を受け、高速道路建設などのために出稼ぎにやって来た労働者とその妻が有楽町で息抜きをし、明るい将来を夢見る、というストーリー。
後述するように同タイトルで映画化された。
映画
『有楽町で逢いましょう』(ゆうらくちょうであいましょう)は、1958年1月15日に封切られた日本映画。製作・配給は大映。監督は島耕二。
上記の宮崎博史の小説『有楽町で逢いましょう』が原作。レコード会社、出版社、映画会社のタイアップによって制作され[10]、京マチ子、菅原謙二ら当時の大映オールスターがキャストに名を連ねた。そごうの店内でロケーション撮影が行われたほか、フランク永井が本人役で『有楽町で逢いましょう』を歌うシーンが存在する。
キャスト
スタッフ
外部リンク(映画)
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エピソード
- 有楽町そごう最後の営業日となった2000年9月24日には、楽曲『有楽町で逢いましょう』を店内BGMで流して閉店セールを行った[要出典]。
- そごう閉店後の読売会館には、2001年よりビックカメラ有楽町店が入居した。新装開店当時に「有楽町ビックで逢いましょう」のキャッチフレーズを使用した[11]。
- 有楽町マリオン前には楽曲『有楽町で逢いましょう』の石碑が設置されている。同ビルに所在したオルタナティブシアター(2022年9月25日閉館)の跡地にI'M A SHOW(アイマショウ)が同年12月に開館した。
- 漫画家のサトウサンペイは、大丸宣伝部のコピーライターだった1956年頃、「心斎橋で逢いましょう」というキャッチフレーズを考案したが、上司に「デパートは買い物をする所で、遊びに来たり、デートするところではないんだ」と却下されたという。そごう宣伝部が『有楽町で逢いましょう』をヒットさせる1年前のことだったという[12]。
- 1958年、中山太陽堂(現:クラブコスメチックス)は「有楽町で逢いま賞」というキャンペーンを展開した[13]。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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