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朝吹登水子
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朝吹 登水子(あさぶき とみこ、1917年2月27日 - 2005年9月2日)は、日本の仏文学者、随筆家、翻訳家である。特にフランソワーズ・サガンの翻訳を数多く手がけ、『悲しみよこんにちは』はベストセラーとなった。また、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの翻訳やジャン=ポール・サルトルとの親交、自伝的小説『愛のむこう側』、パリや実家の朝吹一族に関する随筆などでも知られている。
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概要
実業家・朝吹常吉の長女として東京府(現在の東京都)に生まれる。父方の祖父は朝吹英二、母方の祖父は長岡外史である。長兄は朝吹英一、三兄は朝吹三吉にあたる。
女子学習院を中退後、1936年に渡仏し、ブッフェモン女学校、パリ大学で学んだ。1939年に帰国する。
第二次世界大戦後の1950年に再び渡仏。1955年、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳がベストセラーとなり、以後、サガンの作品を中心に翻訳を多数手がけた。
1958年には、第11回カンヌ国際映画祭の審査員を務めた。1998年、東京都文化賞を受賞。2000年には、フランス政府よりレジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲された^1。
2005年9月2日、逝去。88歳であった。葬儀の喪主は孫の牛場潤一が務めた。
生前、長く居住していた朝吹山荘は、後にスタジオジブリの映画『思い出のマーニー』において、主人公マーニーが住む屋敷のモデルとなった。
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親族
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著書
- 『パリの男たち』(講談社、1965年)
- 『ボーヴォワールとサガン』(読売新聞社、1967年)
- (朝吹由紀子)『おしゃべりフランス語』(実業之日本社、1970年)
- 『愛のむこう側』(新潮社、1977年、のち新潮文庫)
- 『私の巴里・パリジェンヌ』(文化出版局、1977年)
- 『私の巴里・アンティーク』(文化出版局、1979年)
- 『パリの男たち』(人文書院、1979年)
- 『愛のデッサン』(PHP研究所、1979年)
- 『パリ、その日その時』(人文書院、1979年)
- 『描かれたパリ』(講談社、1980年)
- 『私の巴里・ジュエリー』(文化出版局、1981年)
- 『ヨーロッパ通信』(読売新聞社、1983年)
- 『私の軽井沢物語』(文化出版局、1985年)
- 『もうひとつの愛』(読売新聞社、1987年)
- 『ある家族の肖像 - 朝吹家の人々 明治・大正・昭和』(編著、アトリエ出版社、1987年)
- 『私の巴里物語』(文化出版局、1989年)
- 『わが友サルトル、ボーヴォワール』(読売新聞社、1991年)
- 『サルトル、ボーヴォワールとの28日間 - 日本』(同朋舎出版、1995年)
- 『私の東京物語』(文化出版局、1998年)
- 『豊かに生きる』(世界文化社、2002年)
翻訳
- クリスチャン・ディオール『私は流行をつくる』(新潮社、1953年)
- フランソワーズ・サガン
- 『悲しみよこんにちは』 (新潮文庫、1955年)
- 『ある微笑』(新潮社、1956年、のち新潮文庫)
- 『一年ののち』(新潮社、1958年、のち新潮文庫)
- 『ブラームスはお好き』(新潮社、1961年、のち新潮文庫)
- 『すばらしい雲』(新潮社、1962年、のち新潮文庫)
- 『熱い恋』(新潮社、1967年、のち新潮文庫)
- 『毒物』(求竜堂、1969年)
- 『優しい関係』(新潮社、1969年、のち新潮文庫)
- 『冷たい水の中の小さな太陽』(新潮社、1970年、のち新潮文庫)
- 『心の青あざ』(新潮社、1973年、のち新潮文庫)
- 『失われた横顔』(新潮社、1975年、のち新潮文庫)
- 『絹の瞳』(新潮社、1977年、のち新潮文庫)
- 『乱れたベッド』(新潮社、1978年、のち新潮文庫)
- 『昼も夜も晴れて』(新潮社、1980年)
- 『愛は遠い明日』(新潮社、1982年、のち新潮文庫)
- 『赤いワインに涙が…』(新潮社、1983年、のち新潮文庫)
- 『愛の中のひとり』(新潮社、1986年、のち新潮文庫)
- アンドレ・モーロア『パリの女』(紀伊国屋書店、1959年)
- ジャン=ルイ・バロー『私は演劇人である』(新潮社、1959年)
- エリザベット・トレヴォル『女秘書の日記』(新潮社、1959年)
- シモーヌ・ド・ボーヴォワール
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脚注
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