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木下利匡
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木下 利匡(きのした としまさ/としただ、生年不詳 - 天正12年(1584年))は、戦国時代の武将。通称勘解由左衛門。利国とも。高台院の叔父。
略歴
豊臣秀次に仕えた。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに従軍。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも兄・木下祐久とともに参陣。敗走する際、徳川軍に討たれた[2]。愛知県長久手市荒田1−2に彼の死を悼んで建てられた「勘解由塚」がある。碑に添えられた長久手市教育委員会の解説には、「木下勘解由利匡の戦死地です。秀吉方の岡崎侵攻の総大将・三好信吉(後の豊臣秀次)は、白山林(尾張旭市)の戦いで敗北し、ここ(長湫字荒田)まで徒歩で逃げて来て、木下勘解由利匡と出会いました。利匡は自分の馬を信吉に与えて逃れさせ、御幣を地に建てて追ってきた敵と奮戦し、戦死しました。また、兄弟の木下助左衛門祐久も敵を一時食い止め、この付近で戦士しました。後世、ここを勘解由塚、御幣塚、上様塚などと称しています。」と記されている。
参考文献
- 『戦国人名辞典』(吉川弘文館、1962年、84p)
- 『小牧・長久手の戦いの構造』(岩田書院、2006年、84p)
- 『尾張志: 第9集』(愛知博文社 、1892年、102p)
脚注
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