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木曾家豊
室町時代の武将。木曾氏当主。兵部少輔。木曽家頼-木曽家親(弾正忠)-木曽豊親(右京大夫)-木曽信道(式部少輔)-木曽豊方(源太郎、子に木曽家信(伊豆守))-木曽家方(木曾家賢、 ウィキペディアから
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木曾 家豊(きそ いえとよ、生没年不詳)は、室町時代の武将。美濃国小木曾荘の領主で木曾氏の当主。木曾家賢の子。子に義元がいる。
経歴
文正元年(1466年)、菩提寺の興禅寺に梵鐘を寄進している。鐘銘は以下のとおりであった。
壇心離有作々 金匠到無切功 鐘聲廣大 伽藍興隆 群生睡破 利濟無窮 美濃州 慧那郡 木曾庄 萬松山 興禅々寺 住持比丘大壇那 源之朝臣家豊 于時文正元年 丙戌霜月一日
応仁元年(1467年)からの応仁の乱では足利義政からの要請で東軍側に付いた。
文明5年(1473年)、家豊は将軍足利義政の命を受けて[1]、小笠原家長と共に東濃攻略のため、恵那郡の大井城、土岐郡の釜戸村にあった荻之島城(刈安城)を攻め落とした[2]。
その後、木曾氏は天文24年(1555年)甲斐の武田氏の麾下に降るまでの期間、美濃国恵那郡北部の苗木遠山氏を統制下においた。
参考文献
『木曽福島町史 第一巻 歴史編』 第十八節 家豊 92~98P
脚注
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