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本田周司

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本田 周司(ほんだしゅうじ、Shuji HONDA、1927年2月21日 - )は、日本作曲家教育者[1]

略歴

三重県天白村(現・松阪市)生まれ。生家は代々神主を務めており、その三男として生まれた。[2]

長兄がヴァイオリンを弾くなど、家庭内に音楽環境はあり、幼少期より音感のよさを家族から見出されていたものの、習いごとなどを含め特段の音楽教育を受けることはなく、子ども時代を過ごした。楽譜も読めなかった。[3]

海軍に入隊するものの、18歳のときに終戦により復員。終戦後の価値観が大きく変わる混乱期において、芸術ならば裏切られることはないと考え、作曲家の道を志す。[3]野口源次郎及び外山道子に師事。[2]

フランスの作曲家アルテュール・オネゲルに出会い、深く傾倒する。中でも交響曲第3番「典礼風」に感銘を受け、その精神性を理解するためにカトリックの世界に興味を持つようになった。[3]

そのころ既に宝塚歌劇団において音楽の仕事を得ていた。このころ偶然に見つけた神戸市灘区の六甲教会を訪れて、オネゲルのスコアのラテン語の言葉を尋ねたことがきっかけで、同教会に通うようになり、1955年に六甲学院の音楽教諭として就職。[3][4]在職中に、多数の作品を作曲した。六甲学院創立20周年を記念して、1958年2月18日に「六甲歌集」(後記)を発行し、収録曲のすべての作曲を担当した。[4]

六甲学院在職中に、日本二十六聖人殉教に関心を持つようになり、日本二十六聖人が京都から長崎まで連行された道をたどる巡礼路「長崎への道」を歩くようになる。[3] まずは巡礼というものを知るために「四国八十八箇所」を自ら体験し、これを踏まえて、1977年に自ら京都から長崎までを踏破した。[5]

この巡礼行為がモチーフとなり、多数の作品が生み出された。

1957年松下眞一山縣茂太郎、徳田正彦、前田和男、中瀬古和、沢田四郎、網代栄三らと新作曲家集団を結成した。[6]

1989年、六甲学院を退職。「長崎への道事務局」代表となる。

1997年3月19日、日本二十六聖人殉教400年記念演奏会を京都コンサートホールにて実施。

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作品

要約
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さらに見る 作品名, 発表年 ...

関西芸術座での音楽担当 

さらに見る 回数, 発表年月 ...

人形劇団クラリテ音楽担当 [7]

・第8回 1963年6月 鳥の乳

・第9回 1963年12月 セロ弾きのゴーシュ

・第11回 1964年12月 ジャングル・ジムがしずんだ

・第13回 1965年12月 船乗りクプクプの冒険

『六甲歌集』(1958年2月18日発行 2013年10月10日復刻版発行) 収録曲 作詞はすべて上沼俊次

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参考文献

  • 本田周司『伯友』57号「老いの繰り言 わが心の師・故武宮校長先生を偲んで」(2010年)
  • 本田周司『伯友』61号 「『六甲歌集』誕生秘話」(2012年)
  • 毎日新聞社「日本音楽コンクール 入賞者一覧」 https://oncon.mainichi-classic.net/winners/ [8]
  • 『六甲学院新聞』昭和43年4月28日号「三十周年記念式典」
  • 本田周司『六甲』第37号「二十六聖人記念碑の建立」(1987年)
  • 『六甲学院創立50周年記念 京都市交響楽団演奏会』パンフレット(1987年11月14日)
  • 『六甲』第42号 「神様にお任せ、くよくよするな 『長崎への道』を歩む本田周司先生に聞く」(1992年)
  • 六甲学院五十年記念誌編集委員会『六甲学院 五十年のあゆみ』(1987年)
  • 本田周司『交響的序曲 長崎への道 第三番』 (1987年)長崎への道事務局
  • 長野宏樹『家庭の友』2022年6月号 サンパウロ 4-5ページ
  • 鎌谷朝之『六甲』第38号『交響的序曲 長崎への道 第三番』(1988年)
  • 細川周平、片山杜秀 監修『日本の作曲家 近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、ISBN 978-4-8169-2119-3
  • 人形劇団クラルテ『人形劇団クラルテ 創立60周年記念 60年つくりつづけた人形劇』2009年

脚注

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