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杯酒釈兵権

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杯酒釈兵権(はいしゅしゃくへいけん)は、北宋初期の趙匡胤(宋太祖)が、開国に功のあった武将たちから兵権を平和裏に剥奪した逸話である。「酒杯を以て兵権を釈く(解く)」の意からこの名がある。中国史における文治主義への転換を象徴するエピソードとして広く知られる。

経緯

後周の殿前都点検であった趙匡胤は、建隆2年(961年)陳橋の変で黄袍を加えられ、宋王朝を建国した。新皇帝となった趙匡胤は、五代十国時代の軍閥割拠と将軍による帝位簒奪の歴史を繰り返さないため、武将の兵権集中を極度に警戒した。

建隆2年7月、ある夜、趙匡胤は宰相趙普の進言に従い、功臣たち(石守信王審琦慕容延釗高懐徳ら)を宮中に招いて酒宴を開いた。宴もたけなわになると、趙匡胤は突然涙を浮かべて語った。[1]

「朕は毎夜眠れぬ。卿らに裏切られるのではないかと恐れている。」

将軍たちは驚いて平伏し、「陛下のご創業の功臣たる我々が、どうしてそのようなことを!」と弁明した。すると趙匡胤は続けて言った。

「卿らの心に裏切りはないだろう。しかし卿らの部下に野心ある者がいれば、卿らも黄袍加身を強要されるやもしれぬ。それならば、卿らは富貴を子孫に伝え、朕も安眠できるように、兵権を朕に返してほしい。」

将軍たちはこれを聞いて翌日ただちに病と称して辞表を提出し、兵権を返上した。趙匡胤は彼らに巨額の財産と栄華を約束し、名誉職に転任させた。これにより、宋朝は建国後わずか1年で主要な節度使の兵権をほぼ完全に掌握することに成功した。[2]

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史料

この逸話の初出は李燾『続資治通鑑長編』巻2(建隆二年七月己未条)である。[3] 以後、司馬光資治通鑑』巻292、脱脱ら『宋史』巻250石守信伝などにも同様の記述が見られる。[4][5] ただし、会話の細部は史書ごとにやや異なり、後世の脚色が加わっている可能性も指摘されている。

評価

武力によらず一夜にして兵権を収奪した点で、後世「杯酒釈兵権」は「平和的クーデター」「最上の政治手腕」と称賛される。 一方で、宋朝の「重文軽武」政策の始まりとなり、後の西夏モンゴルとの戦争で軍事力が弱体化した遠因とも評される。

脚注

参考文献

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