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東宝映画第三撮影所

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東宝映画第三撮影所(とうほうえいがだいさんさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。もともとは、東京発声映画製作所が1937年(昭和12年)3月に建設・開所したもので、現在の東宝の前身である東宝映画が、同社を1941年(昭和16年)12月に合併し、同社のスタジオがこの名称となった。現在は、その後の経緯で大蔵映画が所有し、1974年(昭和49年)に撮影所としての歴史を閉じ、複合レジャー施設オークラランドとなっている。

概要 種類, 市場情報 ...

データ

北緯35度38分26.18秒 東経139度38分19.02秒

名称の変遷

さらに見る 年号, 名称 ...

略歴・概要

サイレント映画時代末期の1935年(昭和10年)3月、日本活動写真株式会社(現在の日活)が、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)にトーキーに特化した製作会社東京発声映画製作所を設立、同社が、日活との提携を離れて、1937年(昭和12年)3月に同地に建設・開所したトーキー専用スタジオ東京発声映画製作所が本撮影所の最初の姿であった。設立当初は、映画監督の重宗務が所長[1]、脚本家の八田尚之が企画脚本部長であった[2]。近隣には東京農業大学東急自動車学校しかなかった。

1941年(昭和16年)12月、同社が東宝映画と合併し、同製作所は東宝映画第三撮影所と名称を変更した。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)や東宝映画第二撮影所(現在の東京メディアシティ)がある「砧村」からは、世田谷通りを東に行く、ずいぶん離れた立地であった。1943年(昭和18年)12月には、東宝映画が東京宝塚劇場と合併し、現在の東宝となった。同撮影所はの東宝第三撮影所と名称を変更した。

1947年(昭和22年)3月25日、新東宝の設立とともに新東宝第二撮影所となる。特撮用のプールやオープンセットがあった。

1960年(昭和35年)、当時の新東宝の社長大蔵貢が、自らの別会社富士映画に同撮影所を譲渡させ、富士映画撮影所となる。同年12月1日、大蔵は新東宝を解任され、大蔵映画を設立、同撮影所は大蔵映画撮影所となる。第1作は大蔵の製作総指揮、小森白監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(配給大映)であったが、興行的に失敗、同撮影所内にオークラボウルを建設して、スタジオ部分を縮小した。

1974年(昭和49年)、大蔵映画は同撮影所を閉鎖、同敷地を総合レジャー施設オークラランドとした。37年の歴史に幕を閉じた。

脚注

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外部リンク

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