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桂文蝶
日本の落語家 (1888-1977) ウィキペディアから
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- 桂文蝶 - 上方落語の落語家で、天保時代から名前は確認できる[1]。前座名であったらしく、何人いたかは不明[1]。
- 桂文蝶 - 『落語系圖』には江戸3代目桂文治の門人として名が見え、「音曲に長ず達人なり」と記されている[2]。
- 桂文蝶 - 江戸4代目桂文治の門人[2]。武蔵国程ヶ谷宿薬種店河内屋の倅で本名を河内屋栄治。文丸から初代桂文太郎、嘉永から安政初期に桂文蝶となった。明治初年には没。音曲に秀でた。[要出典]
- 桂文蝶 - 後の2代目桂米喬[3]。
- 桂文蝶 - 3代目桂文枝(初代桂小文枝)の門下に確認できる[4]。
こので示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
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桂 文蝶(かつら ぶんちょう、1888年(明治21年) - 1977年(昭和52年)[1])は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家。本名、池田 竹蔵[1]。長命で大阪(上方落語)での明治生まれの最後の落語家とされる[5]。
もとは三遊亭志ん蔵等とともに素人落語をやっていた[要出典]。
1918年ともいわれるころから師匠不明だが燕若を名乗っていたという[要出典]。後に桂文治郎の門下になり文蝶に改名[1]。
1921年頃から吉本の傘下に名が見える。その時からすでにヘタリ(囃子方)を勤めていたようで、戦後も戎橋松竹、千日劇場、道頓堀角座などで[要出典]長くヘタリをやっていた[1][5]。
落語家としては引退同然であったが、のちの「上方落語四天王」(6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝、3代目桂春團治)などに貴重な古いネタを伝承した[要出典]。2代目桂枝雀も『八五郎坊主』をつけてもらったと著書で語っている[6]。
好物は柿であったそうである。また、趣味は釣りであったらしい(米朝は「馬の尾」で語っている)[要出典]。
笑福亭松葉が入門後、高座名が「松葉」に決まったと文蝶に告げると「よかったでんなあ。うちのお師匠さん(文治郎)の名前だっせ」と喜んだという[7]。
1976年に引退披露を行い[要出典]、翌年に亡くなった[1][5]。
『古今東西噺家紳士録』に、枝雀が稽古をつけてもらった時に録音した『歌根問』が収録されている。他にも数点稽古のために録音したネタが残されている。[要出典]
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脚注
参考文献
関連項目
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