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桐生親綱

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桐生 親綱(きりゅう ちかつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上野国柄杓山城主。

概要 凡例桐生親綱, 時代 ...

生涯

下野国戦国大名佐野昌綱の子[1]として誕生。上野国東部の桐生地方を治めた桐生助綱の養子となる。桐生氏藤原秀郷流・藤姓足利氏の後裔。

永禄13年(1570年)、養父・助綱が死去すると家督を継いだ。親綱は古くからの重臣・谷右京大屋勘解由左衛門よりも、実家である佐野氏からの後見役の荒井主税之助茂木右馬之丞山越出羽守津布久刑部の四人に仕置を任せ、これまでの桐生氏の諸法度を廃止し、新法を行って暴政を領内に敷いたので、将士民心は離反した。

桐生氏の行く末を危惧した執事家老)・里見勝広[2]らが諫言するが、親綱に恨まれて自害させられた。また、新田太田の由良氏と、渡良瀬・桐生川の水利を巡って対立を深めた。

元亀3年(1572年3月、に由良氏家臣・藤生善久が居城・柄杓山城を攻撃。城は陥落し、親綱は実家の佐野に逃亡し桐生氏は滅亡した。なお、滅亡した桐生一族の一部は、薮塚滝入[3]に移り住んだといわれ、現在でも多くの桐生姓が存する。

天正6年(1578年)に由良成繁が死去すると桐生城下に忍び込み、桐生城の奪還を画策するが応ずる者はいなかった。

慶長3年(1598年)、死去。

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脚注

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