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樊於期
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樊 於期(はん おき、? - 紀元前227年)は、中国戦国時代末期の秦の将軍。後に燕に亡命した。

中国の歴史学者楊寛は同じ秦の将軍の桓齮と同一人物説を提唱している[1]。しかし、確たる証拠はなく、「李牧に討たれた」とする劉向の『戦国策』との矛盾も見られる。
生涯
樊於期は秦の将軍であったが秦王政の怒りを買って罪に問われ、国を追われた。その際に秦に残した一族は全員死刑となった。怒りを買った理由は史書には記されておらず、不明である。秦は逃亡した樊於期の首に対して、「千斤の金と万戸の封邑」という多額の懸賞金をかけた。
樊於期は燕に亡命すると太子丹に迎え入れられた。丹の太傅の鞠武は樊於期の存在が燕に危険をもたらすとして、匈奴に追放することを勧めた。しかし丹は義を重んじ、樊於期を見捨てることを拒否した。
紀元前227年、丹は秦王政の暗殺を計画し、荊軻がその刺客となった。荊軻は用心深い秦王政に謁見するために、丹に2つの条件を提示した。一つが燕の督亢(肥沃な土地、現在の河北省保定市高碑店市を中心とする広い地域)の地図で、もう一つが樊於期の首級であった。丹は窮地に陥って身を寄せてきた樊於期を殺すことはできないと拒否したが、荊軻は樊於期に密かに計画を伝え、「将軍の仇は報じられ、燕(太子丹)が受けた恥辱も除かれる」と決断を迫った。樊於期は「それは私が日夜、歯軋りし、心を腐らせていたことです[2]。今、ようやく教えを聞くことができた」と感謝を示し、自刃して果てた。丹はこの報を聞くと、駆けつけて樊於期の亡骸に縋りつき、慟哭した。
荊軻は樊於期の首級を持参して秦王政の暗殺を謀ったが失敗に終わり、荊軻はその場で討たれた[3]。
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顕彰
祠墓
樊於期の死後、その遺骸は南荘村(現在の河北省邢台市)に葬られ、後世の人々は祠を建てて祭祀を行ったという。清代の『蠡県志』には「南荘に大きな塚あり、樊将軍墓と呼ぶ。かつて廟碑があったが、今はすべて廃れている」と記されている[4]。
血山塔
河北省保定市易県易州鎮血山村は、樊於期が秦王政暗殺のために自らの首を荊軻に託し、その血がこの地の山に流れたことから名付けられたと伝えられている。村内の小孤山には、後世の人々が樊於期を記念して建てたとされる古塔「血山塔」があり、現在は易県の県級文物保護単位に指定されている。
公園
河北省高碑店市方官鎮方官村に樊館遺跡公園がある。方官鎮は戦国初期に起源を持ち、樊於期が燕に亡命した際、この地に館を設けたことから「樊公館」と呼ばれるようになり、のちに地名が転じて「方官」となったとされる。
脚注
参考文献
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