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燕太子丹

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燕太子丹
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燕太子丹(えん の たいし たん、? - 紀元前226年)は、中国戦国時代末期の太子。姓はまたは[1]燕王喜の子。荊軻刺客として秦王政(後の始皇帝)に差し向け、暗殺を図ったことで知られる(始皇帝の暗殺未遂)。

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太子丹

生涯

要約
視点

少年時代は、に人質として送られ、同じく人質だった公子の政(後の秦王政)と親しくしていたことがある。後に本国に帰国して、燕の太子となった。

見陵之辱

燕王喜23年(紀元前232年)、秦王政は蔡沢を燕に遣わし、3年かけて両国で盟約が結ばれると、丹は秦に人質として送られた。しかし、秦王政は丹を冷遇したため、これに恨みを抱いて秦から逃亡して帰国した。帰国後、秦王政に報復する方法を探したが、燕の国力ではどうすることもできなかった。秦をどうにかしたいという願いは丹の私怨だけでもなく、当時圧倒的に秦が強勢であり、何か手を打たなければ燕も遠からず滅ぼされることが明らかだったためである。

その後、秦は三晋(趙・)を攻めて領土を拡大し、国境が燕にまで迫ろうとしていた。秦の脅威を危惧した丹は、太傅鞠武中国語版へ如何にすべきか相談したところ、鞠武は「秦の領土は広く、北は甘泉谷口が天然の要害となり、南は涇水渭水に沿った肥沃な平野を有する。の豊かな資源を独占し、右(西)はの山岳、左(東)は函谷関崤山の険しい地形に守られている。人口は多く、また兵士も勇猛で、武器防具も満たされている」と評して秦と戦うことの愚を献策し、丹は手をこまねくしかなかった。

樊於期を庇護する

それからしばらくして、秦の将軍である樊於期が秦王政の怒りを買って罪に問われ[2]、燕に亡命してきた。丹がこれを受け入れたのに対し、鞠武は「樊於期を匿うことは『飢えた虎が通る道に肉を置く』ようなもの。樊於期を匈奴へと追放した上で、三晋と同盟を結び、と連携し、単于と講和を結んではじめて秦に対抗する計画を練ることができる」と進言した。しかし丹は「太傅の計略は日をむなしく費やすだけ」と聞き入れず、樊於期についてもその窮状に同情していた丹は、「憐れむべき友を捨てる時が丹の命が尽きる時」と言って退けた。鞠武は「危険なことをして安泰を求め、災いを引き起こして幸福を願い、浅はかな計略で怨みを買い、たった一人(樊於期)との関係を重視し、国家に及ぶ大きな害を顧みない。これはまさに『怨みを育て、禍を助長する』と言われるものである」と匙を投げた。

荊軻に託す

その後、鞠武から知恵者と名高い処士田光中国語版の紹介を受け、丹は国事について相談したところ、田光より荊軻を頼るように助言を受けた。丹は帰り際、田光へ「話した内容は他言無用」と付け加えたことに対し、荊軻へ丹からの用向きを伝えた田光は「人に疑われるようでは節義ある俠客ではない。田光は既に死んだので約束は守られたと太子様に伝えてくれ」と荊軻を激励して自刎した。これを荊軻より聞いた丹は跪いて涙を流し、「丹が田先生に他言無用と告げたのは、大事を成し遂げるためであって、田先生は死をもってその誓いを守った。これがどうして丹の本意であろうか」と嘆いた。

荊軻が席に座ると、丹はあえて席を離れ、拝礼して荊軻に言った。

「田先生が丹の不肖を知らず、あなたを引き合わせてくださったのは、天が燕を哀れんでお見捨てにならなかった証です。秦王は貪欲で、天下の地を全て手中に収め、四海の王者を臣下としない限り満足しないでしょう。秦は既に韓王を捕虜とし、南は楚を討ち、北は趙に迫っています。趙が秦に臣従すれば、次に災いが及ぶのは燕です。燕は弱小で、今や国を挙げても秦に対抗するには足りません。そこで丹は愚かな一計を案じました。もし天下の勇士を得て秦に使者として送り、大利をもって秦王を誘うことができれば、その勢いで丹の願いを成就させることができるでしょう。すなわち秦王を生け捕りにし、奪った諸侯の地のことごとくを返還させるのです。もしそれができなければ、そのまま刺し殺すのです。そうすれば秦の将軍たちは外で兵権を握っているので、内では乱が起こります。君臣は互いに疑心暗鬼を生じ、その隙に諸侯が合従を結べば、秦を打ち破ることは必定です。これが丹の最上の願いであり、どうか荊卿(荊軻)にお考えいただきたいと思います」

荊軻はその未曽有の計画に「自分では不足である」と降りようとしたが、丹の意志が固いことを悟ると承諾した。丹は荊軻を上卿として遇し、与えた上等な館に毎日赴いて美食・珍品・車馬・美女を荊軻の欲するままに贈った。『燕丹子』によるとその礼遇は破格のものであり、ある時、丹と荊軻は東宮の池で遊んでいたが、丹は荊軻が瓦を拾って蛙に投げるのを見ると丸い金塊を荊軻に捧げた。また、二人で千里馬に乗っていた時、荊軻が「千里馬の肝は美味そうだ」と言うと、丹は馬を殺してその肝を捧げた。丹と樊於期が華陽台で酒宴を設けた時には、荊軻が琴を弾くのに長けた美女を見て「好い手だ」と言ったので、丹はその美女の手を切断して玉の皿に盛って荊軻に捧げた。

荊軻刺秦

燕王喜27年(紀元前228年)、荊軻は未だに出立の決意を固めず、その間に秦は趙を滅ぼすと、燕を攻めるために秦の王翦が燕の南境の中山に駐屯した。丹は慌てて荊軻に決行を促すと、荊軻は秦王政に謁見するための材料として燕の督亢(現在の河北省保定市高碑店市を中心とする広い地域)の地図と秦から多額の懸賞をかけられている樊於期の首級を求めた。丹は私心で樊於期を殺すことはできないと拒否すると、丹の心情を察した荊軻は密かに樊於期に会い、「秦王を殺すために将軍の首を頂戴したい。これで将軍は仇を討つことができ、燕(丹)が受けた屈辱も除かれる」と決断を迫った。樊於期は感謝を告げて応じると自刃してその首を荊軻に託した。これを聞いて駆けつけた丹は樊於期の亡骸を抱いて慟哭した。

燕王喜28年(紀元前227年)、丹はあらかじめ天下に比類なき匕首を求め、趙の名工徐夫人中国語版の匕首を百金で手に入れた。さらに工匠に命じて毒薬を塗布させ、試したところ僅かに刺しただけで人が即死するほどの威力であったという。これを荊軻に託し、燕将秦開の孫にして勇士と名高い秦舞陽を副使として同行させた。荊軻はさらに別の同志を待っていたが到着せず、出発を遅らせていた。丹が心変わりを疑うと、荊軻は怒り、ついに決行を宣言した。

荊軻の出立に際し、丹および事情を知る者たちはみな白衣白冠(喪服)を身に纏って送別に列し、易水のほとりで道祖神の儀を開いた。高漸離を奏で、荊軻が和して歌うと、壮士たちは皆涙を流した。荊軻は車に乗り込み、振り返ることなく使命を果たすために秦へ向かった。

こうして両者は咸陽宮で秦王政に相まみえたが、秦舞陽は震えるばかりで使い物にならず、荊軻は失敗して殺された。

最期

秦王政は激怒し、事件の首謀者である丹を追討するため、王翦と辛勝に命じて燕を攻めさせた。燕は趙の亡命国家のと連合して戦うも易水の西で敗れた。

燕王喜29年(紀元前226年)、秦は王翦の軍に大幅に増派し、丹は軍を率いてこれを迎え撃ったが敗れ、燕の国都が陥落した。丹と燕王喜は残る精鋭を全て率いて東方の遼東に向かっていたが、丹は秦将李信に追撃され、衍水に身を隠した。遼東に逃げ延びた燕王喜は代王嘉からの「秦が執拗に追撃するのは太子丹が原因です。大王が太子丹を殺して秦王に献上なされば、秦王の怒りは必ず和らぎ、社稷(国家)はかろうじて滅亡を免れるでしょう」という勧めを受け、衍水にいた丹に使者を送って殺害し、その首を秦に奉じたことで秦の攻勢は一時的に収まった。しかし、燕王喜33年(紀元前222年)に秦の王賁が遼東を攻め、燕王喜が捕らえられて燕は滅亡した(燕攻略)。

丹の最期については司馬遷史記』の中で3つの異なる記述が存在し、上記は刺客列伝及び燕召公世家に基づく[3]。同書、秦始皇本紀では薊が陥落した時に丹は殺されたとしており[4]、王翦列伝では李信が数千の兵を率いて衍水まで丹は追い詰めて捕らえたと記されている[5]

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逸話

烏頭白くして馬角を生ず

「烏頭白くして馬角を生ず」は、著者不明の小説『燕丹子』に記述されている太子丹に関する故事に由来する成語で、この成語の意味は「絶対に起こり得ないことのたとえ」である。

丹が秦に囚われていた際、秦王政が「烏頭白、馬生角(頭の白いカラスと角が生えた馬)」が現れたら帰国を許すという無理な条件を突きつけたことに由来する。なお、後にそのような異象が本当に現れたため、秦王は約束を履行せざるを得なくなって丹を帰したことも記されている。また、『史記』において司馬遷は、「世が荊軻のことを語る際、太子丹の命令を受けて荊軻が行ったことは『天が粟を降らせ、馬に角が生える(天雨粟、馬生角)』ようなことだ、と称えるのはいささか誇張である」とも評している。よって『燕丹子』のこの逸話は『史記』から着想を得たものだと思われるが、その逆の可能性もある。

白虹日を貫く

「白虹日を貫く」は、『史記』魯仲連鄒陽列伝に記述されている太子丹に関する故事に由来する成語である。白虹とはのことであり、異常な天文現象を表す。白虹は「兵」、日は「君主」を指し、古代中国ではこのような天象を君主が危機に遭う兆しや英雄の精誠が天に感応した証として解釈した。

史記集解』が引くところの『烈士伝』によると、荊軻が出発した後、丹は気を整え、空を見上げたところ白虹が現れたが太陽を貫かなかったため、「我が事、成らず」と悟ったという。その後、荊軻の死と計画が失敗したことを伝えられると、「知っていた」と言ったという。

太子河

太子丹の死後、後世の人々は彼を記念して、丹がかつて身を隠した衍水を「太子河」と改名した。

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脚注

参考文献

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