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横井氏
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横井氏(よこいし)とは、武家だった日本の氏族。鎌倉幕府の要職を務めた鎌倉北条氏得宗家の末裔を称し、戦国時代・安土桃山時代には三英傑にそれぞれ仕え、最終的には尾張藩の重役を代々務めるようになった。
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概要
鎌倉幕府第14代執権北条高時の次男である北条時行と熱田大宮司家の娘との間に生まれた北条平太郎時満(初名行氏)は、父の最期を知ると母の実家である尾張国熱田へ移り、成人後は父の志を継いで南朝方として尹良親王に従い信州方面を転戦した後、海東郡蟹江郷に移住したという。その後、時満の子・時任が愛知郡横江村に居を移し、その子時利共々"横江殿"と呼ばれた。
北条時利の子である時永は、はじめ北条源五郎時永と称したが、後、横井掃部介時永と改め、横井氏の始祖となった。横井氏は尾張・美濃・伊勢の国境に隠然たる国人勢力となった。
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戦国期の横井氏
2代・横井時勝
横井時永の子・時勝は、足利将軍家(足利義輝)に仕え、従五位下丹後守に叙任された。また、織田信長の火縄銃の師である中島郡片原一色城主橋本道求と親交があり、天文7年(1538年)には彼の求めに応じて、片原一色にある善応寺に大日如来坐像を寄進している。
3代・横井時延
時勝の子・雅楽介時延は織田信長に仕え、天正2年(1574年)の長島合戦に同郷の塚本小大膳と共に従軍し、篠橋攻め衆に加えられた。天正7年(1579年)5月25日、丹波国で討死。
4代・横井時泰
時延の長男で4代当主の伊折時泰も、父と同じく織田信長に仕えた。天正2年(1574年)6月6日、岐阜城に侵入した敵(武田か)の忍びの者を撃退し、翌日信長に称賛された。信長亡き後は織田信雄に仕えた。小牧・長久手の役をきっかけに徳川家康との結びつきを強めていく一方で、信雄没落後は豊臣秀吉に直接属する武将となったとされる。関ヶ原の役では東軍につき、市橋長勝と徳永寿昌と共に美濃福束城攻略に挑んだ。福束城主丸毛兼利とは織田家臣時代からの知人であったので、時泰は東軍につくよう説得したが叶わず、福束城を落城させた。本戦では横井一族、市橋長勝、徳永寿昌と共に福島正則の別働隊として、敗走する安国寺恵瓊らを追撃する等の功を挙げた。
5代・横井時家(時輝)
時泰の長男である時家は徳川家康に仕え、従六位下信濃守に叙任するも、法に触れる所があったためか伊勢国朝熊へ流罪となり、配所を守らず妄りに京へ入り気ままにしたとして斬首に処せられた。
6代・横井時安
兄・時家が流罪となった後、家康より召し出されて横井氏6代当主となり、旧領の約半地5800石の朱印書を賜った。その後、尾張藩主となった松平忠吉・徳川義直に仕え、大坂の陣にも出陣した。元和6年(1620年)には家康から賜った朱印書を納め、尾張藩主より「知行目録」の黒印状を受け、藩中7位の高禄となり、藩政の枢要を占めることになった。
横井神助
横井神助は赤目横井氏の一族で、最初尾張に住んでいたが武者修行のために関東へ行き、後北条氏に仕えた。第一次国府台の戦いでは小弓公方足利義明を射倒すという活躍を見せ、三浦半島にある三崎城代となった。非常な強弓引きであり、故実にも通じていた神助は、北条氏綱に鳴弦を伝授している。
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江戸時代以降の横井氏
横井時泰の弟である孫十郎時雄(長島一向一揆で討死)、孫右衛門時朝、作左衛門時久、時春の子孫は、それぞれ紀伊横井家、藤ケ瀬横井家、祖父江横井家、肥後横井家に分家し、藤ケ瀬家からは俳人・横井也有、肥後家からは幕末の思想家・横井小楠といった文化人を輩出した。
参考文献
- 八開村史 通史編
- 海東郡海西郡志
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