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横浜訓盲学院
神奈川県横浜市中区にある特別支援学校 ウィキペディアから
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横浜訓盲学院(よこはまくんもうがくいん)は、神奈川県横浜市中区竹之丸にある私立特別支援学校。
視覚障害者を幼稚部から専攻科までを一貫して教育する。私学として開校した多くの盲学校は公立に移管され、現在は全国で唯一の私立盲学校である[1]。視覚障害と他の障害を併せ持つ重複障害の児童への教育を行い、特に盲ろう児童生徒への教育実践がある[2]。
私立の学校法人だが、かつては航空事業を行っていたことでも知られている。
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設置学部
- 幼小グループ(年少〜小3)
- 小中グループ(小4〜中3)
- 高等部
- 専攻科生活科
- 高等部理療科
- 専攻科保健理療科
- 専攻科理療科
沿革
1889年 に、キリスト教宣教のために来日していたシャーロット・ドレーパーによって盲人福音会として設立された[3]。息子のギデオン・ドレーパーも同じく伝道のために来日していた[3]。シャーロットは、2月の夜に按摩として働く視覚障害の少女に出会ったことを契機にその困難な状況を知り、一軒の家を借りて「盲人の保護と教育の機関」として盲人福音会を設立した[3]。最初に身元を引き受けた3名は福音会に定着しなかったが、成人盲教育を実践した[3]。
1900年に神奈川県から私立学校として認可され、横濱基督教訓盲院に改称する[4]。1913年 には現在地に移転。1914年には財団法人として認可された[4]。
1924年に、文部省から私立盲学校として認可され、横濱訓盲院となった[4]。その際、1923年の盲唖学校令発令[5]や、1920年に主事として着任した今村幾太が成人に対する盲教育から盲児教育へと舵を切ったことを受け、初等部予科、初等部、中等部鍼按科、中等部別科が置かれた[4]。早期教育の重要性を認識して、初等部予科(幼稚部)を設置したことが先駆的であった[2]。また教育令を受けて盲学校が公立学校に変わっていく中で、宗教教育の自由等の観点からも私学であり続けることを選択し[6]、金銭的に困難な中でもチャリティ音楽会や職員・生徒による手芸作品の即売会等の等の様々な事業を行って経営を支えた[7]。
戦後、1948年には寄宿舎が盲児施設横浜訓盲院となり[8]、1951年に学校法人横浜訓盲学院に組織変更し[8]、高等部普通科を設置した。
1952年に航空事業部を新設し、翌1953年から北海道で不定期航空輸送を開始する[9]。今村幾太の息子の義彦、鎮目忠雄が戦前にパイロットとしての経験を積んでいたことから事業化し[9]、1969年に横浜航空として独立した。
1968年 に高等部専攻科の理療科を、1973年 には高等部保健理療科を設置し[10]、視覚障害者への職業教育を行う。 2007年には高等部専攻科生活科を設置し[10]、高等部普通科卒業後の重複障害の生徒の教育を行う[11]。2012年には高等部保健理療科を専攻科として設置した[10]。2011年度から2018年度まで学院長を務めた中澤惠江は、盲重複障害と盲ろう教育研究の専門家[12]であった。
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教育方針
日本で4番目の盲学校として誕生し、キリスト教に基づいた私立盲学校として教育実践を積み重ねた[13]。1931年から3年間、生徒の猿田恵子と武井イネ[14]をアメリカのパーキンス盲学校に留学させた[6][15]。また、今村幾太の娘で後に学院長となる今村貞子(1925年-2019年[16])は、戦後アメリカに留学し、パーキンス盲学校の教育について学び、教育内容の改革を行った[2]。
「無学年制」を採用し、幼稚部から高等部生活科までを学年ではなく3つのグループに分けて指導を行い[2][16]、教員の側も複数の教員が役割を分担するチーム・ティーチングを行っている[17]。
関係者
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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