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正倉院展
毎年秋に奈良国立博物館で開催される正倉院宝物の一般展示 ウィキペディアから
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正倉院展(しょうそういんてん)は、毎年秋に奈良県奈良市の奈良国立博物館で開催される、正倉院宝物の一般展示である。
概要
現在の正倉院展は、第二次世界大戦終戦間もない1946年(昭和21年)に「正倉院御物特別展観」として奈良帝室博物館(現・奈良国立博物館)で第1回が開催されたのが始まりで、それ以降、過去3回の東京での特別展を除いて毎年秋に欠かさず開催されている。出陳される宝物は正倉院事務所が60点から70点ほどを厳選しており、毎年10月に宝物庫で行われる「開封の儀」を経て、点検・梱包の後、博物館へ搬入・陳列される。
正倉院宝物の一般公開自体は、江戸時代に東大寺の法要に合わせて寺宝とともに一部が出陳された記録が最古とされている。明治時代に入ると、奈良博覧会(1875年〜1890年)で大規模な展示が行われたが、展示環境の問題から中断された。戦前にも東京帝室博物館などで特別展は開催されていたが、現在の「正倉院展」のように毎年多くの宝物を展示する形式は戦後の1946年から確立された。
正倉院展の歴史を通じて、宝物の保存と展示方法には変遷があり、1962年(昭和37年)に新宝庫が完成して以降、校倉造りの宝庫内での特別参観は中止され、宝物の多くは耐火・耐震構造の新宝庫に移管された。これにより、宝物はより安全に保管される一方、一般の人々が宝物を鑑賞する主要な機会は、奈良国立博物館での「正倉院展」となっている。本展は、長い歴史を持つ正倉院宝物を、貴重な文化財として未来に伝える役割を担っている。
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前史
要約
視点
権力者による宝物拝観
貴族による開封
平安、鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて、時の権力者が勅封であると知りながら宝庫を開封させて宝物を拝観する事例がいくつか見られる。これは普段は開けることができない宝庫を開封させることで権力を誇示する狙いがあったとみられている。修理、点検を除いて最初に宝庫を開かせた例として1019年(寛仁3年)9月30日の藤原道長による開封がある[1][2]。貴族による開封は他に1239年(延応元年)の九条道家による開封が記録されている[3]。
天皇家による開封
1142年(康治元年)には鳥羽上皇が宝庫を開封、聖武天皇の玉冠や枕、王右軍鳥毛屏風などを観覧したという。聖武天皇の玉冠(大仏開眼会の時に天皇が着用)はこの開封を境に皇位継承のタイミングでしばしば出蔵されるようになっている。その後、後白河上皇、後嵯峨天皇、後深草上皇などが宝庫を開封したと伝わっている。「東大寺宗徒大衆詮議事書」によれば後醍醐天皇による琵琶一面の取り出しや後光厳天皇が琵琶の借用を求めて拒否されたことが記録されている。これ以降、明治時代まで皇家による開封の例は見られなくなった[4]。
武士による開封
室町時代に入ると宝物の観覧というよりは、武士による名香・蘭奢待の切り取りが中心となった。1385年(至徳2年)に足利義満、1429年(永享元年)に息子の足利義教、1465年(寛正6年)に孫の足利義政の足利将軍三代が蘭奢待の切り取りを行っている。その先例に倣って織田信長も1574年(天正2年)に蘭奢待を多聞山城に取り寄せて切り取りを行っている[5]。
宝物の展示
江戸時代の正倉院宝物の出陳
現行の正倉院展の始まりは1946年(昭和21年)の第1回正倉院展であるが、正倉院宝物の一般公開は江戸時代に行われたものが最も古い。1847年(弘化4年)、東大寺では3月2日から8日にかけて行基菩薩の千百年御遠大法要が催された。それを記念して3月10日から4月29日の50日間にわたって東大寺の勧進所と二月堂で寺宝の開帳が行われ、そこに「鴨毛屏風」や「正倉院文書」などの正倉院宝物も出陳されている。正倉院文書は1836年(天保7年)に穂井田忠友による整理が終わったばかりというタイミングであった[6]。
奈良博覧会
宝物の調査

明治に入ると、1872年(明治5年)に文部省博物局の町田久成、内田正雄、蜷川式胤らによる正倉院宝物の調査が行われ宝物に大きな価値があることが確認される[6]。1875年(明治8年)には同年に開催予定であった奈良博覧会で正倉院宝物を出品するためとして奈良県の要請で宝物の再調査が行われる[7]。この再調査のタイミングで正倉院は東大寺から内務省の管轄へと移管されている[6]。この移管の理由として、宮内省は正倉院宝物は「国家の宝器」といえるほど貴重なもので国家による保護が必要であり、民間では保護が難しいため官への移管が必要だという理由を挙げている[8]。
移管後には、正倉院の宝物は「東大寺御物」と呼称されるようになった。この名称は天皇家の所有を示すように見えるが、実際には宝物は内務省の管轄下に置かれ、天皇家に所有権が移ったわけではない。「東大寺御物」という呼称の使用には、新政府が天皇を中心とする体制を強調した当時の政治的背景が反映していると指摘されている。この呼称はおよそ70年間にわたって使用され、敗戦後の1948年(昭和23年)の第3回正倉院展のポスターにも「正倉院御物特別展観」と記されていたが、この第3回を最後に用いられなくなった[9]。
奈良博覧会の開催
第一回奈良博覧会は、1875年の4月1日から6月19日にかけて開催され、220件、1700点以上の正倉院宝物が東大寺大仏殿で展示されている。博覧会は入場者数が17万人を超える大成功をおさめ、以後奈良博覧会は1877年(明治10年)を除き1890年(明治23年)まで毎年開催された[8]。しかし、奈良博覧会の大仏殿という展示場所はほとんど屋外といえるような環境であり、湿気による結露によって金属器に酸化が起こりかねないという展示には不適切な場所であった[10]。そのため展示が行われたのは1875年、1876年、1878年、1880年の4度のみで[11]、1881年(明治14年)には湿害や運搬事故によって宝物の破損の恐れがあるとして出陳を拒否している[10]。
帝国奈良博物館の開館

奈良博覧会と同時期に開催された京都博覧会や内国勧業博覧会をはじめ、各地で博覧会が成功を収めたことを受け、歴史美術品を展示する国立博物館の建設が計画された。既に上野に博物館が存在していたため、これに続いて奈良と京都にも博物館を設置する方針が定められ、1889年には帝国博物館の設立が公布された。こうした動きを受け、1895年4月には帝国奈良博物館(後の奈良国立博物館)が開館した[12]。
染織品類の展示
1900年、宮内省の官制改正により帝国奈良博物館は奈良帝室博物館へと改称された。染織品類の整理作業は宮内省の正倉院御物整理掛が担当していたが、これを1904年に廃止、作業を受け継ぐという形で1908年に正倉院は奈良帝室博物館が所管することとなった[12]。1913年(大正2年)の正倉院解体修理に際し、宝物退避のための仮庫が設けられ、修理完了後も染織品類や残材などの未整理品がそのまま保管されることとなった。この仮庫の設置によって染織品整理のための環境が整えられたことを受け、1914年には正倉院掛が博物館へ移転した。さらに1915年には博物館内に御物修理所が開設され、古裂や塵芥の整理および修復作業を担うようになった[12][13]。
明治の奈良博覧会以降、しばらく一般大衆が宝物を目にする機会はなかったが、1925年(大正14年)に奈良帝室博物館で「正倉院宝物古裂類臨時陳列」が催され、1000点に及ぶ染織品の展示が行われた。展示品が染織品のみであったのは、東西アジアの交流を象徴する宝物であったこと、染織品は運搬や展示による破損のおそれが低かったこと、明治期に始まった染織品修理の成果発表の場となることが理由であった[14]。以後、1928年(昭和3年)に東京帝室博物館で開かれた「御物上代染織物展」など[15]、戦前から戦後にかけて染織品のみの展示が何度か開催され好評を博した[14]。
紀元二千六百年記念正倉院御物特別展観

現在の正倉院展のように染織品だけでなく、器物類も展示されるようになったのは1940年(昭和15年)に東京帝室博物館で開催された「紀元二千六百年記念正倉院御物特別展観」からである[14]。11月6日から11月24日の間に41万4300余人が入場し、博物館の入場者数の記録を塗り替えた[17]。
展示される宝物は、万が一の事故に備え、聖武天皇ゆかりの北倉の品を除き、中倉・南倉に所蔵される宝物のうち、類似資料が存在するものが選定された。その中でも琵琶は特に注目を集め、多くの来場者が集中したため、混雑による危険を避ける目的で、博物館は展示翌日から壁面設置型のケースへと移したという[18]。
宝庫での特別参観
1889年(明治22年)から1940年(昭和15年)にかけては、正倉院内の陳列棚を設けて、曝涼(宝物の「虫干し」のことで定期的に行われる)の際に政府や財界の重要人物といった限られた人々にのみ拝観を許していた。また、外国要人のため、特に開封することもあった(例、1922年イギリス皇太子拝観)[19]。
1879年(明治12年)、伊藤博文は正倉院宝庫に陳列用の戸棚を設けることを三条実美太政大臣に上申して翌年許可が出された。黒川真頼が中心となって陳列を担当、1882年に完了した。陳列戸棚には檜材と船来ガラスが使用された[10]。陳列中の1881年11月にはイギリスのアルバート王子とジョージ王子(後のジョージ5世)とその家庭教師が来日、いち早く陳列された宝物を拝観している[20]。
翌年から宝物の虫干しである曝涼が毎年行われるようになり、1889年から曝涼の際に高官や学問の士を対象に一日二十人を上限に拝観が許されるようになった[10]。
1941年(昭和16年)、諸外国との緊張から緊急事態に備えて宝物を包装することになり宝庫内での特別参観は中止された。終戦後の1947年(昭和22年)、正倉院展と並行して宝庫内での参観が再開されている。従来とは異なり学術関係の人物を中心に選考を通過した者が参観を許されていた[21]。
1960年(昭和35年)、宝物を耐震・耐火構造の建物へ移すこととなり、西倉庫の建設が開始された。工事に伴う火災の危険や、塵芥・ガスなどによる影響を避けるため、校倉宝庫の宝物は1953年(昭和28年)に建設された東倉庫へ一時移された。しかし、東倉庫は宝物で満杯となり参観に適した状態ではなくなったため、宝庫での宝物参観は中止されることになった。1962年(昭和37年)には西倉庫が完成したが、宝庫内部での参観には適さない構造であったことから、以後、宝庫内での参観は再開されていない[21]。
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歴史
要約
視点
第一回正倉院展

最初の正倉院展は戦後の1946年(昭和21年)に奈良帝室博物館で開催された「正倉院御物特別展観」である。開催の発端は、太平洋戦争中、奈良帝室博物館と正倉院管理署に疎開させていた宝物を正倉院に戻す際、その宝物を公開してほしいとの意見が出たからであった[22]。戦時中の1943年(昭和18年)10月8日、正倉院宝庫の定期的な曝凉点検が行われた際、空爆などの危険からリスクを分散するため、宝物を分散して管理することにした。奈良帝室博物館の収蔵庫へは北倉から72件、中倉から90件、南倉から105件の宝物が移された[23]。そのうちの33件が特別展観で公開されているが、展示する宝物を選んだのは奈良帝室博物館である。第二回以降の正倉院展は宮内庁が出陳品を決めており、現在とは異なる体制であった[23]。
1946年の5月に奈良県観光協会から宮内省(現・宮内庁)に宝物公開を求める陳情書が提出され、6月にも観光協会は奈良県にやってきた土岐政夫帝室博物館総長に陳情書を提出した。土岐総長は個人的には賛成であるとの意見を述べ、8月に松平慶民宮内大臣に宝物を一般公開すべきという上申書を提出している。9月7日の新聞には特別展観の開催が確定したとの報道がなされている[23]。
特別展観の開催は全国的な話題となり、その影響は旅館の予約の殺到としてあらわれた。当時の奈良は旅館が約30件、収容人数2000人ほどであったが、10月10日ごろにはどこも満室状態となっている。この状況を見た博物館は戦前の東京帝室博物館での展観実績を参考に、来場者数を20万人規模と見込み、同数のチケットを用意していた[24][23]。なお、このチケットは博物館の松村監査官補がデザインしている[24]。
10月16日から18日かけて宝物の開梱、陳列作業が行われた。準備完了後の18日午後に展示の成功と宝物の無事を願って東大寺大仏殿で無障碍法要が営まれている。この法要は現在まで続く伝統となっている[25]。
正倉院特別展観は10月19日に開始された。初日は特別招待日、翌20日は進駐軍招待日として公開され、一般への公開は21日からとなった。入場者数は、特別招待日が3,175人、進駐軍招待日が450人、一般公開初日の21日が3,330人で、開催直後から高い関心が寄せられた。会期が進むにつれて来場者はさらに増加し、最終日には1万人を超える盛況となった[23]。会期中には奈良市内の学校の生徒への参観日が設けられ、3500名以上の児童が宝物を展覧した[26]。22日間の累計は147,487人に達し、当時の奈良国立博物館の年間入場者数(約1万人)を大幅に上回る、異例の規模の展観であったことが分かる[23]。
1947年5月3日、日本国憲法が施行された。帝室の所有物を示す「御物」であった正倉院の宝物は国有となり、帝室博物館は国立博物館となった[27]。
第二回正倉院展
1946年の正倉院御物特別展観の時点ではそれきりの開催の予定で現在の正倉院展のように毎年開催するつもりではなかった。あくまで避難していた宝物を正倉院に戻す前に一般へと公開したという図式であった。目録などにも「第一回」とは記載されていないことからもそれがうかがえる[27]。しかし、特別展観に訪れた人々から敗戦直後でありながら「生きる勇気がわいた」などの感想があがり、それを受けて翌年にも開催されることとなった[27]。
1947年10月26日から11月15日にかけて第二回正倉院展が開催された。前年の混雑を受け、水曜日を特別観覧日として特別料金を設定し、団体見学を金曜日のみに限定するなど、混雑緩和を目的とした措置が講じられた[28]。これにより入場者数は前年より減少したものの、依然として多数の来場者を集めたとされる。日本国憲法の施行により宝物は「御物」ではなくなっていたが、第二回展のポスターには「正倉院御物特別展観」と記されており、当時も「御物」という呼称が継続して使用されていた[27]。
東京での開催
東京国立博物館は、日本国憲法の施行により国立博物館となった当初から、東京で正倉院宝物の展示を開催する計画を立てていた。1949年の正倉院特別展において、その計画が初めて実現した。同回の展観では、1940年の特別展観では展示されなかった北倉の宝物が公開され、14日間の会期で約19万人の入場者を記録した[29]。
その後、東京での正倉院宝物展示は、皇太子殿下御成婚記念の1959年、昭和天皇が80歳を迎えた記念の1981年に行われた。これら3回の正倉院特別展が行われた年は奈良国立博物館での正倉院展は開催されていない[30]。
その後、東京への宝物出陳は2014年の「日本国宝展」[31]、2019年の徳仁の御即位記念特別展「正倉院の世界」[32]などがある。2019年の特別展では入場者数が30万人を超える反響があった[33]。
新宝庫の建設
1953年に染織品や残材を納めていた仮庫を受け継ぐ施設として東宝庫が建設された。1962年には正倉を受け継ぐ施設として西宝庫が建設、主な宝物は西宝庫に移され、勅封も西宝庫にかけられるようになった[34]。宝庫はコンクリート製で、空調設備で宝庫内の環境をコントロールできるようになっている。この移納を境に曝凉という言葉は公式には使用されなくなった[35]。
西新館と東新館の建設

正倉院展の継続的な開催により、奈良国立博物館では次第に展示スペースの不足が指摘されるようになった。このため、1955年(昭和30年)頃から新たな陳列館の建設が検討され、以後、毎年のように建設予算が要望された。1962年には、建設予定地のボーリング調査に関する予算がようやく認められ、その後数年にわたって発掘調査が実施された[36]。その結果、当初の建設予定地であった本館南南東の区域に、春日神社の東西塔跡が確認されたため、建設地は第二候補地であった現在の場所へ変更されることとなった。1966年(昭和41年)の文化財保護委員会局議において建設計画が正式に策定され、1973年(昭和48年)に現在の西新館が完成した[36][37]。この新館は展示室や収蔵室の空調設備や最新式のガラス展示ケースなどの近代的な設備を整えたもので、外観も風致を壊さないように校倉のような雰囲気を取り入れている[36]。
しかし、正倉院展における混雑の問題はなお解消されなかったため、1994年(平成6年)から1998年(平成10年)にかけて東新館の建設が行われた[37]。
1995年(平成7年)の第五十回正倉院展では50周年を記念して第一回正倉院展と同一の宝物が展示された[38]。
奈良国立博物館の独立行政法人化
行政改革の一環として奈良国立博物館は2001年(平成13年)4月から独立行政法人となった。予算の仕組みが大きく変更され、今までは入館料は単に国庫に入るもので運営には関係がなかったが、独立行政法人化によって利益が出れば法人内部で蓄えることができるようになった反面、利益が減ると予算が少なくなってしまうようになった。正倉院展には朝日新聞社が協力して広報などを担当することとなった[39]。
法人化後の第53回正倉院展では、それまで国立機関であるため販売できなかった前売り券が販売できるようになった。かつては入場券の販売で約1時間待つこともあったが、前売り券の導入でこの混雑が解消された[40]。前売り券の導入や朝日新聞社による広報の強化によって入場者は前年から40%増の16万5119人を記録した。入場者数が16万人に届くのは10年ぶりのことであった[41]。
2005年(平成17年)の第57回から協力主体が読売新聞社に移ると、読売関係各社が動員され、それまでにない多彩で大規模なメディア展が実行されるようになった。近年の観覧者急増には、正倉院展自体に集中的に言及するメディア体制の出現が背景にあると言える[42]。
新型コロナウイルスの影響
2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染拡大により、多くの博物館や美術館が一時休館を余儀なくされると、第七十二回正倉院展も開催の可否が検討され、第一波の感染拡大下で判断が求められた。国立博物館および正倉院事務所は、戦後間もない時期から継続してきた正倉院展を中断させない方針を示し、その結果、同年の開催が決定された[43]。
正倉院展の開催にあたっては、新型コロナウイルス感染症の拡大防止策が講じられた。チケット購入時の混雑を回避するため、予約制の日時指定券のみを販売し、入場者数は例年のおよそ5分の1に制限された。また、マスク着用の要請や会話の自粛、消毒設備の設置など複数の対策が導入された。これらの措置により、会期中に感染拡大が確認される事例は報告されなかった[43]。
チケット枚数の制限や外出自粛の影響により、来場が困難となる層が生じることが予想された。このため、読売新聞社および読売テレビの協力のもと、館内を職員が案内する動画が制作され、来場できない人々にも展示内容を鑑賞できるよう配慮が行われた。また、正倉院宝庫での点検作業や梱包作業など、これまで一般にあまり知られてこなかった正倉院展の舞台裏を紹介する動画も公開された[43]。
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正倉院展の開催過程
要約
視点
出陳物の選定
正倉院展の準備は約半年にわたって行われる。新年度に入ると宮内庁正倉院事務所の職員がどのような展観会にするか、何を出陳するかの相談を始める[44]。保存課の各担当者が原案を提示し、それを足したり引いたりして出陳品を決定している[45]。選定にあたっては、宝物全体の姿が把握できるよう、特定の分野に偏らない構成が心がけられているほか[44][46][45]、正倉院宝物が様々な経緯で成立したことがわかるように意識している[44]。また、その年に実施された調査の成果を紹介する目的で、調査対象となった宝物が出陳される傾向もある[46]。
一度出陳された宝物は保存の観点から、原則として10年間は再出陳しない慣例がある[46]。かつては5年間であったが後に現在の10年間となった[44]。第二十五回頃までは、第五回の染織品特集や第十回の聖武天皇・小明皇后遺愛品特集のように明確なテーマが設定されることが多く、同一の宝物が二年続けて出陳される例も珍しくなかった[46]。第一回展は戦時疎開中の宝物を展示するという特異な状況下で開催されたが、第二回以降は現在の方式が用いられている[46]。
出陳物の選定後、博物館側が出陳予定の宝物が適した環境で展示できるかどうかの報告を行う[44]。正倉院事務所が博物館に出陳する宝物とそれを選択した趣旨を伝え、博物館はそれに沿ったその年の正倉院展のストーリーを構築して展示の構成案を考案する[47]。その後、宮内庁内部での調整、有識者の会合への諮問、長官の決済を経て出陳物が確定する[44]。出陳宝物の打診をした段階で博物館の研究員らは陳列の配置や順番等を検討し始めている[46]。
開封の儀
毎年10月になると、2ヶ月間にわたる宝庫の御開封が行われ、宝物の点検や調査が行われる。正倉院展はこの開封期間中に開催されている[48]。西宝庫の建設後は御開封は西宝庫で行われるようになった[49]。
開封の儀に先立って東大寺大仏殿で無障碍法要が行われ、博物館と正倉院事務所の職員らが参列して宝物の無事と正倉院展の成功を祈願する。これは第一回からの伝統であり、正倉院宝物には大仏への件納品、東大寺の什物が収められているいう背景がある[50]。
参列者が宝庫の入り繰りの階段を上って宝庫の中に入っていくシーンは毎年多くの報道がなされている。この参列者は、事務所長を先導に、天皇の代理の勅使、宮内庁職員、来賓などから構成される[51]。
西宝庫は正倉院と同様に北倉・中倉・南倉の三区画に分かれ、一階と二階の計六つの宝物庫が存在する。各宝物庫の入口には、扉の奥にさらにもう一つの扉が設けられており、こちらには海老錠と呼ばれる古式の錠前が掛けられ、麻縄で複雑に結束される。その上から、天皇の署名が記された紙の封によって勅封が施される[34][52]。外した勅封は勅使が天皇に示し、無事に御開封がなされたことを報告する[52]。
点検・梱包
倉が開いた後、準備が整うと点検作業が行われる。博物館と正倉院事務所の職員が白衣を着て西宝庫に入り宝庫の一階で点検を行う[50]。点検作業には各分野の専門家が従事しており、互いに顔なじみの関係であることから、緊張感を保ちつつも円滑な雰囲気で作業が進められる。作業の合間には文化や芸術に関する議論が交わされることもあるという[53]。宝物調査の成果は順次「正倉院年報」に掲載される[54]。
点検後は梱包班へと宝物が渡され、二階で梱包作業を行う。1982年から二階で作業するようになっているが、それ以前は正倉院宝庫の床下で梱包が行われていた。宝物が西宝庫に移動された1963年以前は正倉院校倉の縁側や床下で梱包されていた[50]。
梱包作業は、研究員らが担当する内梱包と外梱包の二段階に分けて行われる。内梱包では、宝物を薄葉紙と綿ぶとんで丁寧に包み、外梱包ではそれを梱包箱の内部に固定した上で薄紐をかける。これらの梱包資材の調達は博物館職員が担っている[50]。
綿ぶとんとは、薄葉紙で真綿を包んだ梱包用資材であり、薄紐は薄葉紙から作られる紐である。毎年、綿ぶとんはおよそ千枚、薄紐は二千本前後が用意される。梱包箱については一定のストックがあり、宝物の大きさに応じて適切な箱を使用し、不足分は新たに制作される[50]。
かつて綿ぶとんと薄紐の制作は、博物館の「衛士」(警備員に相当)の役割であった。しかし、2001年に国立博物館が独立行政法人化されたことに伴い、警備業務が外部委託へ移行し、衛士は警備に専念する体制となった。その結果、綿ぶとんや薄紐の制作も外部発注へ切り替わり、従来の伝統的な制作体制は失われることとなった[50]。
搬入と陳列
梱包作業が完了すると、宝物は奈良国立博物館へ搬入される。正倉院から博物館に搬入する前と博物館から戻ってきた後の二度、博物館側と正倉院側双方で展示する宝物を点検する「点検引き渡し」、「点検引き取り」が行われる。それぞれの点検には約一週間ほどかかけている[55]。
宝物を収めた箱は、宝庫内では研究員が運搬し、宝庫の扉から輸送車までは衛士が担当する。輸送には、美術品輸送会社のトラックと奈良国立博物館が保有する美術品専用車が用いられる。この輸送には奈良県警察が警護として同行しており、1kmに満たない道のりを輸送車の前後にパトカーを配置して最徐行でエスコートする。盗難の抑止というよりは追突などによる宝物の破損を防ぐ狙いがある。この体制は第二回展から継続して実施されている[56][57]。なお、宝物を東京などの遠方に輸送する際は、各都道府県警察が県境ごとにこの警備体制をリレーしていく[57]。
陳列作業は研究員によって約四日間かけて行われる。梱包作業と同様、白衣を着用し手指を消毒したうえで宝物を扱うのが原則である。正倉院展では、一度出陳された宝物は約10年間は再出陳されないため、鑑賞者に悔いが残らないよう、細部が見やすい陳列を心掛けている。可能な限り箱の内部や底面なども公開されるよう配慮されている。一般の博物館展示では美術品輸送会社が陳列作業を補助する場合が多いが、正倉院展では研究員のみで陳列を行う点に特徴がある[56]。
正倉院展
正倉院展は、毎年10月下旬から11月上旬にかけて約17日間の会期で開催される。正倉院展の会期は、開催当初の昭和21年と昭和22年は20日間、昭和25年からは10日間、昭和35年から50年までは15日間、その後は地元の要望もあり、原則17日間と推移している[58]。
入館者数は初回の開催からしばらくは平均4~5万人で推移し、新館の建設後の昭和48年(1973年)以降は平均15万人ほどとなり[36]、コロナ禍までは会期全体で20万人以上が来場する屈指の規模の展覧会となっていた。2019年には、正倉院展の累計入場者数が1,000万人を突破している[59]。
正倉院事務所所長の西川明彦は、会期が短い理由について、会期延長を求める声は多いものの、宝物の引き渡し時に行われる点検や陳列作業に相当の時間を要するため、会期を延ばすには勅封を解く期間自体を延長せざるを得ないと説明している。また、開封が秋の限られた時期にのみ行われているのは、高温多湿となる夏季や低温乾燥となる冬季に外気が流入することを避けるためであり、こうした保存環境の制約から会期延長は困難であるとしている[59]。
観覧者が多い理由としては、毎年内容が変わることに加え、定期的に来場するリピーターが多い点が挙げられる。また、コロナ以前は入場料が比較的安価に設定されていたことも、集客の一因であった[59]。
このように会場の混雑が常態化していることから、正倉院展では展示点数を抑える方針が取られている。一般的な特別展では100点以上が展示されることも多いが、正倉院展では来場者の安全と鑑賞環境を考慮し、展示数を60~70点程度にとどめている[60]。
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正倉院展目録
毎年の正倉院展ではその年の正倉院で展示された宝物の目録が製作、販売される。名前は「正倉院特別展観目録」、「正倉院展観目録」を経て現在の「正倉院展目録」と変遷してきている[47]。
展示内容が確定すると、掲載する写真の選定が行われ、夏頃から目録原稿の執筆が始まる。原稿執筆は博物館の学芸スタッフが総出で担当し、複数回の読み合わせを重ねて完成させる。目録の内容については、基本的に博物館側に一任されており、正倉院のスタッフが関与するのは、染織品の解説など一部の執筆協力にとどまっている[47]。
評価
東京芸術大学名誉教授の中野政樹によると、正倉院展は自らの美術史の原点であり、戦後から欠かさず拝観しているという 。2001年の正倉院展に訪れた際は、近年観客が少なくなったと言われる中、今回の観客数の多さに驚きつつも 、観客が多くて見づらい状況が「人を興奮させ、人を引き寄せる要因」ともなっていると肯定的に捉えている 。また、「普段あまり美術に関心のない方々も大挙して集まってくる」開放的な雰囲気を、正倉院展の良さとして評価している 。天平の昔を身近に感じる正倉院展は「奈良の秋とともにあってこそ一段と意義深い」としている[61] 。
韓国国立中央博物館学芸研究官の閔丙贊(ミン・ピョンチャン)は、初めて正倉院展を観覧した際、展示が名品一色でなく、保管用の箱や包装材が多かったことから、当初は「失望の念」を抱き、「日本人のためのイベントに過ぎない」と感じていたという。しかし、第54回正倉院展で、新羅からの輸入品である「佐波理匙」とその包装に使われていた新羅の文書を鮮明に見た際、強い感銘を受け、それまでの疑念が解けたという。この経験を通し、宝物だけでなくその包みや箱を展示することの大切さを悟り、「ナショナリズムとコスモポリタニズムが一つになり得る」ことを再認識、今後は日本の国際性を超えて、コスモポリタニズムを満たす正倉院展を期待しているとした[62]。
ベルリン東洋美術館のアレクサンダー・ホフマンは2005年の第57回正倉院展を訪れ、正倉院展は、気が遠くなるような歳月を経ても「この上ない状態」を保っている宝物の際立った美しさに「突然の衝撃」を受け、コレクションの歴史において「匹敵するものはない」と非常に高く評価している 。また、観覧者の流れが考慮された広々とした展示室の工夫や、海外観覧者にとってありがたい質の高い英語版図録の作成についても賛辞を贈っている 。その一方で、ホフマンは改善点として、宝物の素晴らしい保存を可能にした収納・保存方法に関する展示の追加を提案している[63]。
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脚注
参考文献
外部リンク
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