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正義と微笑

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正義と微笑』(せいぎとびしょう)は、太宰治の長編小説。

概要 正義と微笑, 著者 ...

1942年(昭和17年)6月10日、錦城出版社より「新日本文藝」叢書の一冊として刊行された。装幀は藤田嗣治。初版発行部数は10,000部、定価は1円50銭だった[1][2]

執筆の時期・背景

1941年(昭和16年)12月9日、太宰は弟子の堤重久から弟の堤康久の日記の話を聞くと、即座にこれを小説の題材にすることを思い立つ。15、6歳の頃から書き続けられた弟康久の日記は、兄重久によれば次のようなものであった。

「簿記帳みたいな黒いクロス表紙の、縦がきのノートに、蟻を並べたような小さな文字で、平均一日おき位の割合で、きっちり丹念にかきこんであった。(中略) 随所に、わざと大混乱の文体で、盛んに!や、?を使って、学校や教師に対する罵言、友人に対する侮弄、自己嫌悪の慨嘆、切々たる未来への憧憬が、激しい口調で、それでいてユーモラスに綴られていた。十六歳前後の、少年にしか書けない、どろどろした、切ない何物かがあった。まだ岩にならい岩漿が、赤く、熱く、火花を散らして、行間に流れていた」[3]

また重久は本作品と日記を比べ、こう述べている。

「全篇に滲んでいるキリスト臭は、弟の日記には一抹もなく、当時私たちをとらえていたマルクスを、そっくりキリストに切り変えたものである」[4]

本作品は、1942年(昭和17年)1月に書き始められ、同年3月19日に完成したものと推測される(原稿用紙292枚)[5]。あとがきで太宰は「T君の日記は、昭和十年頃のものらしく、従つてこの『正義と微笑』の背景も、その頃の日本だといふ事も、お断りして置きたい」と記している。

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備考

  • 本作品の題名は「ほほえみ」ではなく「びしょう」と読む。「正義と微笑」という言葉は冒頭部分の
    「微笑もて正義を為せ!」
    いいモツトオが出来た。紙に書いて、壁に張つて置かうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張らうとしてゐます。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん
    という節から取られている。なお、この「人に顕さんとて」は『マタイ伝福音書』第6章第16節の言葉であり、主人公は16節から18節までを引用している。
  • 鷗座の面接の場面で主人公が朗読する『ファウスト』は、森林太郎訳の『ファウスト 第一部』(岩波文庫、1928年7月20日)と『ファウスト 第二部』(岩波文庫、1928年9月10日)である。
  • モデルとなった堤康久は明治学院中等部から立教大学予科に進み、築地の新劇団の研究生を経て、前進座に参加した[6]。戦後は東宝の専属俳優として活躍した。
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脚注

外部リンク

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