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武田敬孝
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武田 敬孝(たけだ ゆきたか、1820年3月17日(文政3年2月4日[1][2]) - 1886年(明治19年)2月7日[1][2])は、幕末の儒学者。明治時代の官吏。胆沢県権知事。通称は亀五郎[1][2]。雅号に韜軒、熟軒、天経、伯佐[1]。
経歴
大洲藩儒御旗組小頭武田敬忠、新谷藩医久岡氏の女三保子の長男として、伊予国伊予郡中村(愛媛県伊予郡北山崎村を経て現伊予市)に生まれる[1]。大洲藩校で常磐井厳戈に[1]、経史や詩文を山田東海に学んだ[3]。1839年(天保10年)父に代勤して江戸在番の機会を得[3]、大橋訥庵の教えを受け尊王思想を抱くようになる[1]。
学識を認められ足軽小頭から[3]藩主の侍講に登用され、藩校明倫堂教授となり、執政顧問を兼ねた[1]。幕末は尊王諸藩との連携に尽力した[2]。
維新後は明治政府に出仕し、1869年(明治2年8月)胆沢県権知事を拝命[4][1]。1870年(明治3年5月)まで務めた[4][5]。ついで静寛院、梨本、華頂の各宮家の家令となり、宮内省に出仕した[1]。1886年(明治19年)2月7日、病没した[5]。
親族
脚注
参考文献
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