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武部欽一
日本の官僚・教育者 ウィキペディアから
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武部 欽一(たけべ きんいち、1881年(明治14年)4月25日[1] - 1955年(昭和30年)8月2日[2])は、日本の文部官僚。教育者。


経歴
金沢市出身[1]。旧制第四高等学校を経て、1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に山口県事務官に任官した[1]。1911年(明治44年)、文部省参事官に転じ、宗教局長、実業学務局長、普通学務局長、資源局参与を歴任した[3]。1929年(昭和4年)、朝鮮総督府学務局長に就任[1]。再び文部省普通学務局長を務めた後、1934年(昭和9年)に広島文理科大学学長・教授に就任するが、数日で辞任を余儀なくされた[3]。
その後、日本青年館理事[3]、帝国教育会専務理事、社会教育協会理事、共立女子学園理事[4]、東京帝国大学講師[3]、慶應義塾大学講師を務めた[4]。
1951年(昭和26年)からは東京家政学院短期大学の学長・理事長を務めた[5]。
親族
栄典
著作
- 著書
- 『日本教育行政法論』 日本学術普及会〈教育講座〉、1916年10月
- 『勤労学校とはどんなものか』 社会教育協会〈社会教育パンフレツト〉、1926年9月
- 『ペスタロツチと勤労学校』 社会教育協会〈社会教育パンフレツト〉、1927年5月
- 『勤労教育』 隆文館、1929年7月
- 『教育者の生活安定と互助の精神』 全国教員互助会聯合会〈全国教員互助会聯合会パンフレツト〉、1937年2月
脚注
参考文献
関連文献
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