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死せる王女のための孔雀舞

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死せる王女のための孔雀舞』(しせるおうじょのためのパヴァーヌ)は、佐藤史生による日本の短編漫画作品およびそれと主人公をおなじくする短編連作の総題である[1]。この主人公・加賀見七生子(かがみ なおこ)は、『グレープフルーツ』第1号(1981年7月25日)掲載の「雨男」にはじめて登場した。その後、同誌に「死せる王女のための孔雀舞」(第2号、1981年11月25日)、「さらばマドンナの微笑(ほほえみ)」(第4号、1982年5月25日)、「我はその名も知らざりき」(第7号、1982年12月25日)が掲載された。連作全体を指す名称として、『七生子シリーズ』(なおこシリーズ)を使うこともある[2][3]思春期の少女の「成熟」を描く心理劇であり[注釈 1]、独自の世界を構築したサイエンス・フィクションで知られる佐藤の作品群のなかでは異色とされる[1]

この連作は、ある地方都市[注釈 2] に両親と住む高校生・加賀見七生子が出会う重要な他者との交流を通して、父と娘との間で起きる葛藤のさまざまなかたちを描く[注釈 3]。第1作では、七生子の叔父の門馬公春の家を空き家だと思って雨宿りに入り込んだ自称「雨男」の荘村類との対話で、絵を描くことに没頭していた幼い七生子が、父の言いつけにしたがって絵をやめ、周囲に認められる優等生としてふるまうようになった理由が語られる。第2作「死せる王女のための孔雀舞」では公春(実は七生子の実の父であったことが物語中盤であきらかになる[注釈 4])の娘である門馬水絵、第3作「さらばマドンナの微笑」では七生子の同級生の「マドンナ」こと楯縫まどかが登場する。それぞれの父に対する愛あるいは憎しみのために、水絵は自死、マドンナは失踪するという結末をむかえる。最終話となる第4作「我はその名も知らざりき」では、七生子は公春の同級生であった大学教員の諸井淳と出会う。かつて公春を愛していた諸井は、七生子が公春とおなじ「魂」を持つという理由から好意を抱き、七生子もまた、諸井の姿に既視感を覚えて魅了される。しかし七生子は、それは似た者同士が惹かれあう「親和作用」であって恋愛とは異なるものであることに最終的に気づき、諸井に別れを告げて恋人・荘村類のもとに帰る[1]

人間が成熟していくには、何かを選び、何かを断念せざるを得ない。七生子にとって、2人の父、とりわけ公春との同一化を断念して父離れを果たすのは、困難なミッションであった。他の登場人物――荘村類、門馬水絵、楯縫まどか、諸井淳――も、それぞれ何らかの選択を迫られている。そのような選択を通じて過去の断念を昇華し、いかに現在の自分を祝福して過去の自分と統合するかという少年少女にとって喫緊の、しかし解決困難な課題が、連作全体を貫くテーマとなっている。[1]

単行本として、1983年新書館から『死せる王女のための孔雀舞: 七生子シリーズ』(Paper moon comics)が刊行されている[5]。上記連作の4作品のほかに「夢喰い」(1982年)を収録。佐藤の死後の2012年に「佐藤史生コレクション」中の1冊として復刊ドットコムが刊行した『死せる王女のための孔雀舞』は、これら5作品のほか、佐藤がデビュー前後に坂田靖子主宰の同人誌『ピグマリオン』に寄稿した「一角獣にほほえみを」(1976年)と「マは魔法のマ」(1977年)を収める[4]

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注釈

  1. 同様の志向性を持つ佐藤作品としては、両親の庇護の下で生きるしかない病弱な女性の鬱屈と覚醒を描いた「ふりかえるケンタウロス」(『別冊少女コミック』1979年8月増刊号)がある。[2]
  2. 場所は明示されないが、第4作「我はその名も知らざりき」によれば、東京まで片道2時間半である。また、自宅から通える国立大学は1校しかないという。[4](pp125,128)
  3. 七生子の抱える問題の正体が「エディプス・コンプレックス」であることは、第2作「死せる女王のための孔雀舞」で、彼女の独白によって明示される。[4](p36)
  4. 第2作では、公春の描いた、燃え上がる深紅の翼をもつ孔雀の絵が登場する。その絵のタイトルが「死せる王女のためのパヴァーヌ」である。公春にとって「死せる王女」(あるいは「亡き王女」)とは、会うことのかなわなかった実の娘・七生子を指す。[1]

出典

関連項目

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