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殷嶠

唐の軍人 ウィキペディアから

殷嶠
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殷 嶠(いん きょう、生年不詳 - 622年)は、中国軍人は開山。雍州鄠県の出身。本貫陳郡長平県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。

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殷嶠

経歴

の秘書丞の殷僧首(殷不害の子)の子として生まれた。殷嶠は若くして書物を渉猟し、書きつけの文章に巧みであり、隋の太谷県令として任用された。李淵太原で起兵すると、召されて大将軍掾に補任され、軍機に参預した。軍功により光禄大夫となった。李建成に従って西河を攻撃した。李世民が渭北道元帥となると、その下で長史となった。ときに関中に群盗の勢力が割拠していたが、殷嶠は命を受けてその招諭にあたった。劉弘基とともに長安故城に駐屯し、衛孝節の軍を撃破した。長安が平定されると、陳郡公の爵位を賜り、丞相府掾となった。 まもなく吏部侍郎に任ぜられた。

元帥府司馬として李世民に従い、薛挙を討った。たまたま李世民が病の床に伏したので、軍を劉文静に委ねて、「賊は遠くからやってきたので、急戦に利がある。公らは争いを避けて、持久戦の構えを取るべきだ。食糧が尽きるのを待ち、その後に攻略するように」と戒めた。殷嶠は退出すると、「王は病にかかり、われわれの力では勝てないことを心配して、戦わないよう求めたのだ。いま機をみて敵を破れば、賊を王に残すこともないだろう」と劉文静に説いた。そうして戦端を開いたところ、薛挙に乗じられて、大敗を喫した。死罪に相当するところ、一命を許されて庶民に落とされた。薛仁杲に対する征戦に従軍し、功績によって爵位をもどされた。武徳2年(619年)、陝東道行台兵部尚書を兼ね、まもなく吏部尚書に転じた。李世民が王世充を討つのに従い、功により鄖国公に爵位を進めた。

武徳5年(622年)、劉黒闥に対する攻撃の途中に、病没した。詔により陝東道大行台右僕射の位を追贈され、節とされ。永徽5年(654年)、司空の位を追贈された。

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評価

『旧唐書』:殷峤、刘政会、柴嗣昌は皆太原におり、真っ先に挙義に参加し、微細から顕著へと発展し、善始善終を全うした。

『新唐書』:殷開山は書籍を広く渉猟し、文書を作成することに巧みであった。

吕温:穏やかなる殷公、初めは懦夫の若し。銅印を帯びて吏を試み、褒衣たるは儒と為る。大風、雲を駆るが如く、忽ち之と俱にする。真宰に遭逢し、造化の謨に参ず。天地既に辟けり、其の功赫々たり。王に従い行いを龔しみ、帝を佐けて光宅せしむ。遠く驥足を展べ、高く鳳翮を揮う。以て永く誉れを終え、竹帛に垂る。

演義小説に描かれる殷開山

『西遊記』において、殷嶠(殷開山)は時の宰相であった。彼は陳光蕊の学才を高く買い、自分の娘である殷温嬌をその妻として嫁がせた。殷温嬌は後に男児を出産し、この子が後の三蔵法師(玄奘)なのである。

隋唐の演義小説において、殷開山はしばしば登場するが、主要人物ではない。明代の『大唐秦王詞話』では、殷開山は星宿・箕水豹の生まれ変わり(原文: 箕水豹殷開山初興唐室)とされ、第一回で早くもその勇武を発揮し、醮金斧を振るって敵将・高徳儒と数合も戦わずして生け捕りにしている。

『唐书志伝通俗演義』第三十回において、徐世勣(李勣)の提案により星座に因んで命名された関中十二軍の中で、怪州道は天紀星を名号とし、殷開山によって統率された。[1]

羅貫中の『隋唐両朝志伝』では、第三十七回の標題が「殷開山独戦四将」となっている。秦王李世民が薛仁杲の軍と交戦中、敵を追撃して深く侵入し、大周山で薛仁杲配下の四将(鄧貴、許華、韓簡、鄭慶)に包囲され、危機に陥る。殷開山はこれを見ると、重囲に飛び込み秦王の救出に向かった。彼は大斧を手にし、勇猛無比であり、四将は矛先を殷開山に向けて包囲攻撃した。殷開山は微塵も恐れることなく、四将と奮戦した。左右に突き進み、斧術は精妙を極め、たとえ体に幾つも傷を負おうとも尚も奮戦し、秦王を掩護しながら戦い、撤退することに成功した。その後、殷開山は秦王と共に退却する途中、今度は敵軍の別の二将、梁師成と馮右の待ち伏せに遭遇した。殷開山は自らの重鎧を脱ぎ、李世民に覆い被せると、さらに六将と三十余合も斬り結び、鄧貴を馬から斬り落とし、唐将・劉弘基の援軍が到着するまで持ち堪え、最終的に秦王の危難からの脱出を成功裡に掩護した。

伝記資料

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