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比企則員
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比企 則員(ひき のりかず)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武蔵国の武将、江戸幕府旗本。比企能員の末裔を称し、比企郡中山村(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を中興して一族の菩提寺とした。
生涯
永禄元年(1558年)[注釈 1]、比企政員(左馬助)の子として生まれる[1]。父の政員は関東の上杉家[注釈 2]に仕え、永禄4年(1561年)には北条氏と戦って功績があったという[1]。
『寛政重修諸家譜』によれば、則員は幼少期に、上田上野介朝広[3](上田憲定[4])のもとにあった[1]。上田氏はもともと扇谷上杉家の重臣として知られた一族で、武蔵松山城を本拠とし、小田原北条氏の傘下に入った国衆である[5]。天正年間(1573年 - 1592年)には常陸国に出陣して筑波山麓で「真壁道無」(真壁久幹)と戦い、武功を挙げた[1]。また、下野国の皆川氏と太平山で戦って高名であったという[1]。また、天正年間に中山(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に金剛寺を再興して一族の菩提寺としたとされている[6][7]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、松山城も前田利家らの軍勢に包囲されるが、この際に比企則員も守備陣に加わっている[7]。則員はその後比企郡で蟄居し、慶長6年(1601年)に結城秀康に召し出されたものの、まもなく病気によってふたたび蟄居した[1]。その後、慶長16年(1611年)に則員の子・比企義久(次左衛門)が徳川家に仕えると[1]。則員も慶長18年(1613年)に本多正信によって川越で召し出された[1]。
慶長19年(1614年)、則員が病気であると聞いた家康は、「万病円」という薬を100粒与えるとともに、特に言葉を伝えた[1]。元和2年(1616年)没、享年59[1]。
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脚注
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