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水谷叔彦

日本の軍事技術者・実業家 ウィキペディアから

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水谷 叔彦(みずたに よしひこ、慶応2年12月28日没年不詳)は、大日本帝国海軍の機関科軍人。最終階級は海軍少将工学博士。後に日本製鋼所取締役会長として重工業界にも影響を与えた人物で、明治期にイギリスへ留学した経験を持つ。日本人で最初にゴルフをプレーした人物の一人とされる。彦と表記される場合がある[1]

生涯

水谷叔彦は愛知県の水谷真清の長男として生まれ、明治28年に家督を相続した[2]。明治18年、海軍機関学校を卒業して海軍少機関士となり、その後累進した[2]

明治36年9月26日、淑彦は呉造船廠造機科長兼海大教官に任ぜられ、同年11月30日に呉工廠造機部長となった[1]

明治期の呉工廠では、明治39年8月21日に職工らが賃金や昇給をめぐって示威行動を起こし、巡視中の造機部長であった叔彦が傷害し、工場事務所守衛所を破壊した事件が起きている[3]

明治39年1月26日に大佐へ昇進し、明治40年4月6日には駐英造船造兵監督官を命じられて渡英した[1]。明治41年2月7日に帰朝し、明治42年12月1日に少将へ進級した[1]

その後も工学畑を歩み、明治44年1月18日に再び呉工廠造機部長を務め、明治45年6月29日に待命、大正2年2月10日に予備役編入となった[1]

技術者としての業績により、大正4年に工学博士の学位を授与され、退役後は日本製鋼所取締役会長を務めたほか、広島製作所や北海道製鉄会社の重役を歴任した[2]

妻まちは福井の大館尚氏の娘であり、また海軍大将八代六郎の妹・りきが水谷家に嫁いだという記録もある[4]

また、明治29年(1896年)にロンドンのグリニッチ海軍大学へ留学中、淑彦はブラックヒースでゴルフをプレーした記録があり、これが日本人がゴルフを行った最初期の例としてしばしば紹介されている[5]

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脚注

参考文献

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