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水谷覚夢

日本の本草学者 (1747-1830) ウィキペディアから

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水谷 覚夢(みずたに かくむ)は江戸時代後期の尾張藩士、本草学者嘗百社盟主水谷豊文の父。

概要 凡例水谷 覚夢, 時代 ...

概要

延享4年(1747年)10月19日、尾張藩士水谷光長の子として生まれた[1]享和2年(1802年)3月4日隠居し、長男水谷豊文に家督を譲った[1]

松平君山本草学を学び、虎薬師僧某、總見寺塔頭陽嵓院和尚某、柳薬師僧某等を同学とし[1]、毎月17日に集って本草会を開いたという[2]。なお、明治に史料の読み違えから覚夢自身が柳薬師僧との誤伝が生じた[1]

また、神波挺庵・全庵「尚左随筆」には鶴翁として載るが、覚夢翁の誤伝か、別号か不明[1]

また、画業も修め、玉泉と号したという[1]

文政13年(1830年)9月25日病没し、春日町泰昌寺に葬られ、廃寺後矢場町政秀寺に改葬された[1]

親族

水谷家は本姓藤原氏、本国は伊勢国で、水谷刑部少輔光房、右京進光久、郡太夫規久を経て、忠右衛門光平の代から尾張藩に仕え、覚夢で3代目という[1]

  • 父:水谷友之右衛門光長[1]
  • 伯父:水谷直之丞[1]
  • 姉妹:政[1]
  • 長男:水谷豊文 - 本草学者。
  • 娘:本多武助妻[1]
  • 子:兼松七之丞正盛[1]
  • 子:水谷道三郎安則[1]
  • 子:安藤鉄弥知義[1]

脚注

参考文献

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