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延享
日本の元号 (1744-1748) ウィキペディアから
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延享(えんきょう、旧字体:延󠄂享)は、日本の元号の一つ。寛保の後、寛延の前。1744年から1748年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇、桃園天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗、徳川家重。
改元
今回は改元の予定は決まっていたものの、候補が絞り切れず、幕府には7つの案を出してそのうち「天明」「延享」「宝暦」を推挙する形を取った。これに対して幕府は「延享」を推して「宝暦」を次点としたため、その意向に従って改元を行った[1]。
出典
『芸文類聚』の「聖主寿延、享祚元吉」から。
延享年間の出来事
要約
視点
人形浄瑠璃が最盛期を迎え、いわゆる三大名作のうち『菅原伝授手習鑑』と『義経千本桜』の2作が延享年間に、『仮名手本忠臣蔵』も改元直後の寛延元年8月に初めて上演された。一方、延享4年頃から寛延年間にかけて、全国的に百姓一揆や打ちこわしが頻発するようになった[2]。
- 寛保4年/延享元年
- 延享2年
- 2月12日:六道火事。死者1323人。焼失家屋2万8000棟[6]。
- 2月:福島藩29ヶ村の百姓が減免と、豪農・豪商の非道を訴え強訴[6]。
- 5月:竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が占守郡の温禰古丹島に漂着。
- 8月21日:『夏祭浪花鑑』(人形浄瑠璃)大阪・竹本座で初演。
- 9月25日:徳川吉宗、将軍職を辞し、西の丸に移る(大御所)。
- 11月18日:刈谷藩の百姓、前藩主三浦義理の移封先、三河国西尾城に押し寄せる。先納金の返還を求めてのことだった[7]。
- 11月:徳川家重、第9代将軍宣下。
- 二本松藩、人口増加をねらいとした赤子養育制度「出生撫育法」を布達[6][8]。
- 大坂堂島で、手旗信号が試みられる[9]。
- 元文4年(1739年)に禁止された豊後節が再び流行[9]。
- 延享3年
- 延享4年
- 3月21日:日本左衛門処刑。
- 3月:桑折藩が廃藩。代官所が置かれ、半田銀山が幕府の直轄となる[11]。
- 5月2日:桜町天皇が譲位。桃園天皇践祚。
- 5月13日:上山騒動、五巴徒党一揆。上山藩で、町人による打ちこわしや百姓による強訴が発生[7]。
- 7月15日:青木昆陽、評定所儒者に就任[7]。
- 7月:大垣藩「延享の永御暇」。財政の悪化により11月までに家中177名をリストラ[7]。
- 8月15日:細川宗孝殺害事件。江戸城殿中で旗本板倉勝該が熊本藩主細川宗孝を刺殺。
- 9月6日:大洲藩、藩校「止善書院明倫堂」を創設[7]。
- 9月15日:田沼意次、小姓組番頭格に就任[7]。
- 11月:『義経千本桜』(人形浄瑠璃) 同上。
- 『庶物類纂増補』完成。全54巻。
- 延享5年/寛延元年
誕生
死去
西暦との対照表
※は小の月を示す。
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脚注
参考文献
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