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江藤捨三
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江藤 捨三(えとう すてぞう、1868年〈明治元年5月12日〉[1] - 1947年〈昭和22年〉3月31日)は静岡県出身の製鉄技術者であり工学博士。室蘭製鉄所の初代所長を務めた[2]。
来歴
駿河国駿東郡金岡村にて平民・江藤俊平の五男として生まれる[3]。1887年(明治20年)7月、第一高等中学校の予科第三級へ入学。東京帝国大学工科大学の採鉱冶金科を1895年(明治28年)7月に卒業し、当時国内唯一の近代式製鉄所として稼働していた釜石鉱山田中製鉄所に勤めた[注釈 1]。1896年(明治29年)5月に退職すると、同年7月に官営八幡製鉄所の技手に任官、工務部に所属した[注釈 2]。翌1897年には研修のためドイツへ留学し、ベルリン大学で2年間研究したのち帰国。1900年(明治33年)5月に製銑部勤務となり、8月に銑鉄科長に任じられた[5]。1901年(明治34年)2月5日の第一高炉火入れにも参加したが、ドイツ人技師と意見が合わず初出銑翌日の2月8日に工務部へ配置換え。翌年8月に退職した[3]。
1905年(明治38年)6月、ドイツ留学時の知人である北海道炭鉱汽船の西加二太に紹介され同社に入社。当時は専務取締役・井上角五郎の強い信念のもと製鉄場(場所は後の室蘭市輪西町)を造ろうとしていた頃で、1907年(明治40年)4月より日産50tの高炉建設など設備面での準備が始まる[注釈 3]。1909年(明治42年)6月に輪西製鉄場(後の室蘭製鉄所)が竣工。場長を務める江藤の下、同年7月18日に火入れが行われ22日に初出銑。それから2ヶ月強で2,297tを生産したが、9月30日に操業を停止。理由としては生産コストが合わなかったことや炉内の固着物が連続出銑を妨げたからとされる[6]。
江藤は1912年(大正元年)に金岡村村長を務める兄・浩蔵[7]方より分家。北海道炭鉱汽船は1913年(大正2年)12月に三井財閥の傘下に入り、輪西製鉄場は再整備されて操業を開始。好景気となっていたこともあり、一日あたり平均75-85tの生産を続けた[6]。その後、輪西製鉄場は1917年(大正6年)1月に北海道炭鉱汽船から分離され、新たに北炭、三井鉱山、三井合名の三社合同出資による北海道製鉄株式会社として設立。江藤は、引き続き製鉄所所長を務めつつ同社の取締役[8]に選任され、1922年(大正11年)まで在任した[注釈 4]。
1920年(大正9年)3月に博士論文「北海道産沼鐵鑛及製鐵一般ニ関スル研究及設計」を提出、帝大工学部教授会の審査を受け工学博士の学位を授与される[1][9]。室蘭を引き上げた後は東京の大崎町に住み、1923年(大正12年)から1926年まで日本製鋼所の嘱託として勤務。大日本チタニウムの相談役なども務めた[10]。退職後も鉱山に関わり続け、1947年(昭和22年)3月31日に満78歳で没す[3]。
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家族・親族
- その(妻)- 1881年(明治14年)9月生まれ。静岡県・世古直道の八女[8][注釈 5]。
- 誠一(養子)- 1903年(明治36年)4月生まれ。静岡県・堀江栄太郎の五男[14][注釈 6]。東京大学政治学科を卒業し、三井信託を経て大蔵省入り。北海道財務局長を務めた[17]。
脚注
参考文献
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