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池田定常

江戸時代中期から後期の大名。因幡若桜藩5代藩主。従五位下縫殿頭。池田政勝の次男。子に煕子 ウィキペディアから

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池田 定常(いけだ さだつね)は、江戸時代中期から後期にかけての大名[1]因幡国若桜藩5代藩主[1]官位従五位下縫殿頭は冠山[1]松平冠山と呼ばれることもある。

概要 凡例池田定常, 時代 ...
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生涯

1000石の旗本池田政勝の次男[1]として誕生した。幼名は鐵之助[2]、恒次郎[3]安永1773年)、先代の若桜藩主・池田定得が嗣子無くして病死した。定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった。

定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎谷文晁塙保己一林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標佐伯藩)や市橋長昭近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。享和2年(1802年)11月、家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる。

定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典、地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている。寛政8年から翌9年に記した巡見日記が『駿河めぐり』として中川芳雄により翻刻されている[4]。文政6年には、自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ『児子再生前世話』(勝五郎再生前生話)を記した[5]

天保4年(1833年)7月13日に死去した。享年67。法号は停雲院冠山。墓所は東京都墨田区弘福寺、鳥取県鳥取市国府町奥谷の鳥取藩主池田家墓所

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人物

父の政勝は定常が幼くして若桜藩の藩主になったとき、教育係の神戸与五郎高橋平五左衛門の2人に、「大名になったからと言って甘やかすな。定常を大名と思わず、旗本と思って厳しく教育せよ。贅沢などはもってのほかだ」と言い聞かせている。定常は父の言葉をよく守り、死ぬまで大名だからといって贅沢な暮らしはしなかった。

系譜

  • 父:池田政勝(1709年 - 1782年)
  • 母:朝倉氏
  • 養父:池田定得(1754年 - 1773年)
  • 正室:なし
  • 室:柿沼氏
  • 側室:お妙の方
    • 十六女:松平露(1817年 - 1822年) - 露姫、浄観院、玉露童女
  • 生母不明の子女
    • 女子:徽子 - 徽姫、青木一貞継室
    • 女子:煕子
    • 女子:奉姫 - 池田喜長
    • 女子:恵子
    • 女子:茄子
    • 男子:恭之助
    • 男子:力三郎
    • 男子:千之丞
    • 男子:池田常久
    • 女子:昌子
    • 八女:鎮子 - 鎮姫、織田信陽正室
    • 男子:池田定足
    • 女子:房子
    • 女子:奉子 - 池田政富の養女、池田政行正室

脚注

参考文献

関連項目

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