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池田成章
日本の武士 ウィキペディアから
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池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。
経歴
出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ[1]、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵[注釈 1]の養子となった[1]。
初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた[1]。
藩校興譲館で書・文学を学び[2]、上杉茂憲の小姓となる。町奉行、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
明治維新後は廃藩置県に伴い、置賜県に仕官[1]。県判事となる。
1881年(明治14年)5月に茂憲が沖縄県令として赴任することに伴い、内務省御用掛となり、沖縄県に在勤[2]。10月に沖縄県権少書記官を命じられ、翌年1月には事務官判事に就いた。1883年(明治16年)に茂憲が沖縄を離れるのと共に東京に戻り、1884年(明治17年)に大蔵省御用掛に就任した[1]。
1886年(明治19年)に官を辞し米沢に帰郷する[1]。米沢中学校(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)の初代校長を担い、両羽銀行(現在の山形銀行)の創立に関わり、1907年(明治40年)まで初代頭取を務めた[1]。また米沢市会議員に当選し、参事会員、副議長、議長を経て、1904年(明治37年)に山形県会議員には選ばれ、1907年まで同議長として在任した[2]。
主君の茂憲に終生忠誠を尽くし、1896年(明治29年)に茂憲が米沢に戻ったときの居宅として鶴鳴館(現在は上杉記念館として公開されている)の建設に当たったのも成章であった[3]。
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家族
著書
- 『鷹山公世紀』吉川弘文館、1906年9月。
- 『過越方の記』
脚注
参考文献
外部リンク
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