トップQs
タイムライン
チャット
視点

池田斉敏

江戸時代後期の大名。備前岡山藩7代藩主。岡山池田宗家9代。島津斉興の次男。従四位下・伊予守、左近衛権少将 ウィキペディアから

池田斉敏
Remove ads

池田 斉敏(いけだ なりとし)は、江戸時代後期の大名備前岡山藩の第7代藩主。岡山池田宗家9代。

概要 凡例池田斉敏, 時代 ...
Remove ads

生涯

文化8年4月8日(1811年5月29日)、薩摩藩主・島津斉興の次男[1]として江戸屋敷で生まれる。生母は斉興の正室・周子鳥取藩主・池田治道の四女)。初名は島津 久寧(ひさやす)[1]。岡山藩第6代藩主・池田斉政(正室の伊渡子は周子のおばにあたる)の嫡男であった斉輝文政2年(1819年)に23歳で早世し、その後養子となった甥の斉成も文政9年(1826年)8月に早世したため、同年10月に斉政の養嗣子に迎えられ[1]池田 為政(ためまさ)と名乗る。

文政12年2月7日(1829年3月11日)、斉政の隠居により家督を継いだ。将軍徳川家斉の偏を受け斉敏(「敏」は養祖父池田敏政の1字)に改名した。

代の井田法に倣い、後楽園内に井田を縮尺再現するなどし、民政に尽力した。嗣子のいなかった斉敏は、大叔父にあたる奥平昌高の十男・七五郎(後の慶政)を仮養子として、天保13年1月30日(1842年3月11日)に岡山において死去した[1]。享年32。七五郎は斉敏と異なり、それまでの池田家一族とは直接の血縁関係がなかったため、支藩の鴨方藩主・池田政善の娘宇多子を斉敏の養女とし、婿養子として七五郎を迎える手順をとった。この手続きを完了するまで斉敏の死亡は隠されており、4月2日にようやく喪が発せられた。

Remove ads

逸話

  • 斉敏の一周忌に、同母兄の島津斉彬は追悼文を送ったという(「島津斉彬傳」)。
Thumb
曹源寺の斉敏夫妻の墓。左(手前)が斉敏の墓。
  • 斉敏は岡山城大手門の前に店を構えた伊部屋の酒饅頭をたいそう好み、茶会の席に伊部屋の饅頭を出すよう命じていた。その後この饅頭に「大手まんぢゅう」の名を与えている。今も「大手まんぢゅう」は岡山銘菓の定番として親しまれている。

系譜

さらに見る 池田斉敏の系譜 ...
Remove ads

出典

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads