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汪惟和
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概要
汪惟和は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、南宋領四川への侵攻で多くの功績を残した汪徳臣の息子として生まれた[1]。
鞏昌汪氏は汪世顕・汪徳臣・汪惟正の三代に渡って陝西・四川方面に強大な影響力を有する軍閥として存続してきたが、1282年(至元19年)に汪ジャライルタイ(汪氏の誰に相当するかは不明)が総帥の地位を罷免されてより[2]、その権限が制限されるようになった[3]。一方でこのころより汪惟和も記録上に現れるようになり、1287年(至元24年)には四川から徴発した5千の軍に六盤山で屯田させるよう進言したとの記録がある[4]。
さらに中央において権臣のサンガが登場すると汪氏への締め付けは一層厳しくなり、1288年(至元25年)には汪氏の総帥が取り仕切る「鞏昌便宜都総帥府」を解体して、複数の宣慰使が共同管理する宣慰使司に移行することが決められた[5][3]。サンガはこの宣慰使司に自らの弟の答麻剌答思を宣慰使として送り込み、勢力伸長を図っている。一方で汪惟和は1289年(至元26年)2月より北方に出征するよう命じられ、同年には領内の漢人の兵器を没収したとの記録がある[6][7]。
しかし、1291年(至元28年)にサンガが失脚すると答麻剌答思は処刑されることを恐れて自殺し、これを受けて宣慰使司は廃止されて鞏昌等二十四処便宜都総帥が復活された[8]。かつて総帥であった汪惟正は1285年(至元22年)に死去しており、1292年(至元29年)に総帥に任命されたのが汪惟正の弟の汪惟和であった[9][3]。また1293年(至元30年)にはディクン派の乱を経て混乱していたチベットに3千の兵を率いて出征している[10]。
クビライの没後、その孫のオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)にも引き続き仕え、1297年(大徳元年)には配下の兵を率いて沙州・瓜州で屯田を行った[11]。最終的な官位は昭文館大学士に至ったが、没年については伝えられていない。
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鞏昌汪氏
汪世顕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汪清臣 | 汪佐臣 | 汪翰臣 | 汪良臣 | 汪直臣 | 汪徳臣 | 汪忠臣 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汪惟簡 | 汪惟勤 | 汪惟能 | 汪惟和 | 汪惟賢 | 汪惟正 | 汪惟益 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汪懋昌 | 汪寿昌 | 汪嗣昌 | 汪安昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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脚注
参考文献
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