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汪世顕

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汪 世顕(おう せいけん、1195年 - 1243年)は、金朝およびモンゴル帝国に仕えたオングト人。は仲明。鞏州塩川鎮の出身。

概要

要約
視点

金朝仕官時代

汪世顕はテュルク系オングト族の出身で[1]、没年からの逆算により1195年(明昌6年)の生まれであったと推定される[2]。汪世顕は当初金朝に仕え、戦功を挙げて1214年(貞祐2年)には千夫長に任じられた[2]。このころ、モンゴル軍の侵攻によって追い詰められた金朝は在地諸勢力の取り込みに務めており、同年10月には「諸色人」が武挙を受けることを許したとの記録がある[3]。汪世顕が金朝下で取り立てられたのも、このような政策転換が背景にあったと考えられている[3]

その後、同知平涼府事などを経て1227年(正大4年)には隴州防禦使に昇格し、さらに征行従宜分治陝西西路行六部郎中の地位に遷った[2]。同年はチンギス・カン晩年の西夏遠征のさ中であり、西夏領に接する陝西方面もモンゴル軍の攻撃を受けていた[4]。汪世顕の征行従宜分治陝西西路行六部郎中という肩書はモンゴル軍の侵攻を受けた後の復興と防備の再築を意図したものと考えられている[4]

チンギス・カンの没後、金朝は防衛体制の再編を図る中で鞏州を陝西方面の中心と位置づけ、1229年(正大6年)に鞏州を鞏昌府に昇格し、汪世顕も同知兼参議とされた[5]。モンゴル軍による第二次金朝侵攻が侵攻する中、鞏昌府には完顔仲徳が知鞏昌府兼行総師府事として派遣され、1231年(正大8年)には鞏昌行省が置かれた[5]。この鞏昌行省に汪世顕も参画し、防衛体制強化のため周辺の民を石門山へ集めるなどの事業に従事している[5]。しかしトルイ率いる軍団の攻撃によって鳳翔府が陥落してしまうと、鞏昌一帯は首都の開封府と分断されて孤立してしまった[5]

モンゴルへの投降

1232年(正大9年)に金朝が三峰山の戦いで大敗を喫し、首都の開封が包囲を受けるに至ると、汪世顕の上官である完顔仲徳は救援のために東方に向かった[6]。以後、鞏昌方面は汪世顕が「便宜総帥」として統べて存続を果たし、1233年(天興3年)には完顔仲徳が鞏昌への遷都を建議し、そのために粘葛完展が完顔仲徳の後任として鞏昌に派遣された[6]。しかし蔡州の陥落によって金朝が名実ともに滅亡すると、汪世顕は周辺勢力への従属を模索し始めた[6]1234年(端平元年)には、汪世顕は南宋への内附を求めて趙彦呐に接触したが、成立するに至らなかったとの記録もある[5][7]

一方、モンゴル帝国では1234年のクリルタイで東西に大規模な遠征軍(バトゥの西征軍、クチュの南征軍)を派遣することが決まり、その中で陝西・四川・チベット方面への侵攻はコデン(オゴデイの息子の一人)が担当することとなった[8]。このころ既に汪世顕はモンゴルに降ることを決意しており、上官であり最後まで投降に反対した粘葛完展を攻め殺した上で、1235年乙未)10月にコデンに投降した[9][10]。またこの時、当時14歳であった息子の汪徳臣は質子(トルカク)としてコデンに差し出されている[8]。なお、『元史』汪世顕伝などで汪世顕は最後まで金朝に忠誠を尽くした忠臣であると称えられるが、銭大昕などは上述の粘葛完展殺害などを挙げ、金朝に忠誠を尽くしたとは言えず、「主に背き利を嗜む」小人であったと批評している[11]。逆に、汪世顕からの誘いを断って最後までモンゴルに抗い、会州アンチュルに攻め滅ぼされた郭蝦蟆は『金史』で忠義伝に立伝されている[12]

コデンの配下として

この後はコデンの配下に入って四川侵攻に従事し、嘉陵江大安軍に進出した。この時、田・楊の諸蛮がモンゴル軍の侵攻を阻もうとしたが、汪世顕は軽騎兵でもってこれを打ち破った。また曹将軍らの軍団を破って武信に入り、資州普州にまで進んだ。南宋側は山に柵を築いて対抗しようとしたが、汪世顕は騎兵でもってこれを破り、資州・嘉定府眉州を平定するに至った。開州に進んだ後、南宋軍が万州南岸に駐屯するのに遭遇すると、汪世顕は北岸で船を調達し、南宋軍に奇襲をかけて斬首3千余りを得る勝利を収めた。その翌年には重慶府を包囲するも酷暑のため撤退を余儀なくされた。その後、オゴデイ・カアンの下を訪れ、歴戦の功績を讃えられたという[13]

1241年辛丑)の成都府攻めでは将帥の陳隆之が守備を固めモンゴル軍は攻めあぐねたため、南宋軍の田顕が密かに投降する調略が進められた。汪世顕は陳隆之が田顕の寝返りを見抜いたことに気づくと、自ら城壁を登って田顕の投降を助けたという。これによって動揺した成都府は陥落し、汪世顕は陳隆之を捕らえてこれを斬った。汪世顕はさらに精鋭500名を率いて漢州を攻撃し、これを陥落させた[14]

1243年癸卯)、陝西方面では汪世顕以外にもモンゴルに降った漢人世侯が何名かいたが、1243年(癸卯)までには汪世顕がコデン家の代理人とし、陝西西部一帯を管理するシステムが確立した[15]。このころより汪世顕は鞏昌府・平涼府・臨洮府慶陽府秦州・隴州・寧州定西州原州鎮戎州階州成州河州洮州岷州西和州積石州蘭州・会州・環州金州洋州南鳳州徳順州の24城を統括するようになり、その領域は「鞏昌二十四処」などと呼称された[16]。しかしこのころ既に汪世顕は病がちとなっており、それからまもなく49歳にして死去した[17][18]

息子には鞏昌便宜副総帥となった汪忠臣、汪世顕の地位を継いだ汪徳臣、鞏昌中路都総領となった汪直臣、汪良臣、アウルク兵馬都元帥となった汪翰臣、鞏昌左翼都総領となった汪佐臣、鞏昌左翼都総領、四川行枢密院副使となった汪清臣ら7人がいた[19]

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鞏昌汪氏

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪世顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪清臣
 
汪佐臣
 
汪翰臣
 
汪良臣
 
 
汪直臣
 
汪徳臣
 
 
 
 
 
汪忠臣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪惟簡
 
汪惟勤
 
汪惟能
 
汪惟和
 
汪惟賢
 
汪惟正
 
汪惟益
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪寿昌
 
汪嗣昌
 
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脚注

参考文献

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