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河辺定長
日本の公家、神宮祭主 ウィキペディアから
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生涯
大中臣氏一門の河辺徳長の子として生まれる。
正保3年(1647年)、13歳のとき、実の祖父・河辺辰長の跡を継いで大宮司に就任する。その後、承応2年(1653年)、二十歳のとき、出自について大中臣氏二門であることが条件となっていた祭主に、一門出身でありながら就任した。翌年には、出口延佳の『陽復記』を後光明天皇の叡覧に入れたことがきっかけとなって、定長は神祇権大副に任じられた[1]。
明暦元年(1655年)、定長は罹病し、祭主としての職務を行えなくなった。嗣子の無い定長は、北小路俊臣の次男を改姓させ、祭主後継として養子に迎え入れた[2]。これに対して大宮司河辺精長が反発したことにより、後継を何年も決めることができず、その最中に27歳で卒去した[3]。
官歴
系譜
- 父:河辺徳長
- 養子:河辺兼長 - 北小路俊臣次男
脚注
参考文献
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