トップQs
タイムライン
チャット
視点
河野通訓
江戸時代後期の旗本 ウィキペディアから
Remove ads
河野 通訓(こうの みちのり)は、江戸時代後期の旗本。京都町奉行、田安家家老などを歴任した。
略歴
西丸目付、日光奉行を務めた後、嘉永元年(1848年)山田奉行に転任し[1]、さらに嘉永3年(1850年)には京都町奉行となる[2]。嘉永6年(1853年)老中阿部正弘が黒船来航への対応について広く意見を求めた際、諸侯諸士に並んで意見書を提出しており[3]、直後に普請奉行に転任[4]。安政2年(1855年)には安政江戸地震が発生したため、普請奉行として江戸城内外の修繕を担当している[5]。その後作事奉行を務めた後、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)まで田安家家老(当主:徳川慶頼)を務める[6][7]。安政6年(1859年)安政の大獄に際しては、一橋家当主徳川慶喜への隠居慎の処分を伝達する役目を、一橋家家老竹田斯綏とともに務めた[8]。
出典
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads