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河鍋暁翠

1868-1935, 明治~昭和初期の日本画家、浮世絵師。暁斎の門人、長女。 ウィキペディアから

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河鍋 暁翠(かわなべ きょうすい、慶応3年12月10日1868年1月4日[1] - 昭和10年〈1935年5月7日)は、明治時代から昭和時代初期の日本画家浮世絵師

来歴

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百福図(1890年)河鍋暁斎記念美術館蔵

浮世絵師で狩野派の絵師であった河鍋暁斎の門人で、暁斎3番目の妻ちかとの間に生まれた長女。名はとよ[2]、初め暁辰と号す[3]江戸生まれ。数え5歳の頃、父に「柿に鳩の図」(河鍋暁斎記念美術館蔵)の手本を与えられ[4]、日本画の手ほどきを受け始めた。暁翠はこの手本を生涯大事にしていたという。17歳の時には第2回内国絵画共進会に出品するまでの実力を備えていた。『河鍋暁斎絵日記』には彩色を手伝ったり、時に代稽古に出かける姿がしばしば描かれている。

その後も明治20年代にはいくつかの展覧会に出品し、その彩色を評価され、内国絵画共進会や内国勧業博覧会で入選する。明治21年(1888年土佐派住吉派の絵師山名貫義に弟子入り、父の狩野派とは異なる流派を学び、明治22年(1889年)22歳の時に父暁斎と死別している。明治24年(1891年)、美術展覧会に川鍋とよ として「佳人詠落花図」を出品し、褒状二等を受賞している。明治29年(1896年日本美術協会会員にもなっている(亡くなるまで在籍)。明治35年(1902年)、東京女子美術学校(現・女子美術大学)開校の翌年、父の弟子だった島田友春の代わりに初の女性教授となる。この時の教え子に、山脇敏子がいる。この間、明治40年代までは錦絵や挿絵本も出版するなど、画家として幅広い活動を繰り広げていた。

明治37年(1904年)宮城県仙台市出身で慶應義塾・アメリカ スタンフォード大学で経済学を修めた[要出典]高平常吉と結婚。神田和泉町の借家から台東区上野池之端七間町に新居を構えた。明治43年(1910年)娘 よしの誕生以前に女子美術学校を退職する。大正4年(1915年)夫の常吉と別居、円満離婚。娘 よしを河鍋姓にし養育する。生来の控えめな性格も手伝ってか、展覧会活動等は少なくなり、皇室や良家の子女や趣味人に教える個人教授が、活動の主体となっていった。暁翠は盆石「湖月遠山流」家元という一面もあり、画家らしく白砂を染める「色砂」や砂を盆に張り付ける「留砂」に工夫をしたという。しかし晩年、家元株を有力な門弟3人に分け与えたという[5]。昭和10年(1935年)出稽古先で脳溢血となり、死去。享年68。戒名は大法院妙聞日豊大姉。谷中瑞輪寺塔中正行院に葬られる。

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画風

暁翠は父の画風を受け継ぎながら美人画や能画を能くしたが、その作品は少ない。浮世絵研究者飯島虚心は「翁(暁斎)の筆と比べて殆ど異なる所なきが如し」「最も彩色に長ぜり」と評している(飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』)。作品としては「鐘馗」、「七福神辰年図」などが挙げられる。「七福神辰年図」は3枚続の絵で、大黒天が恵比寿、寿老人、おかめの前で辰の絵を描いている場面を描いている。また肉筆で「百福図」と題して多くのお多福の絵を描いている。「地獄太夫図」は和泉国堺の高須町の遊廓にいた遊女の地獄太夫を描いており、この地を訪れた一休和尚が「聞きしより見ておそろしき地獄哉」と詠みかけると、「活来る人もおちざらめやも」と付け句した才女であったといわれる。諸派を学んだ暁翠であるが、弟子の小熊忠一から何派を名乗ればいいかと尋ねられると、即座に「狩野派です」と答えたという。

門人に佐藤暁関綾部暁月小熊忠一がいる。

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作品

錦絵

  • 「毘沙門天寅狩之図」 大判3枚続 河鍋暁斎記念美術館山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵 明治22年(1889年武川清吉
  • 「女礼式歌合」 大判3枚続
  • 「七福神辰年之図」 大判3枚続 プーシキン美術館所蔵 明治24年(1891年
  • 「巳年の福神遊」 大判3枚続 悳俊彦コレクション 明治25年(1892年) 武川清吉版
  • 「五節句之内 皐月」 大判3枚続 悳俊彦コレクション 明治25年 武川卯之吉版 ※「花月」、「皐月」、「文月」、「菊月」の4点が知られる。

肉筆画

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河鍋暁翠を題材とした作品

小説

脚注

参考文献

外部リンク

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