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浅井了意
江戸時代前期の浄土真宗の僧・仮名草子作家 ウィキペディアから
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浅井 了意(あさい りょうい、慶長年間 - 元禄4年1月1日(1691年1月29日)[1][2])は、江戸時代前期の仮名草子作家、浄土真宗の僧侶。号は松雲・瓢水子・羊岐斎など[1][3]。摂州三島江出身[1]。初期の作品に『堪忍記』(万治2年〈1659年〉)『可笑記評判』(万治3年〈1660年〉)『かなめいし』(寛文2年〈1662年〉)など。寛文6年(1666年)刊行の『伽婢子』は怪奇物の先駆として知られる。
経歴
慶長の頃、摂州三嶋江(高槻市)の本照寺(現碧流寺)の住職をしていた西川氏の家に生まれる[4]。了意の父は真宗大谷派の僧侶だったが、弟の西川宗治の東本願寺出奔事件に連座したため、真宗から追放されて還俗した[1]。このため、了意は流浪の日々を送ったと推測されるものの、その前半生の詳細は不明である[1]。壮年期は大坂に住み、寛永末年には京都に移住した[1]。『江戸名所記』『東海道名所記』『むさしあぶみ』などの作品があることから、江戸にも往来ないし一時居住したことがあったと考えられている。[要出典]
容膝に師事して儒学・仏道・神道の三教に通じた[1]。当時から博覧強記ぶりは有名で、『鸚鵡籠中日記』にも「彼博識の了意」と記述がある[2]。後に出家して大谷派に戻り、京都の菊本町の正願寺の二世住職となり、1675年(延宝3年)4月11日に本性寺の設立を許された[1][4]。晩年は本性寺昭儀坊了意と名乗った[1][5]。
元禄5年(1692年)に刊行された『狗張子』によれば、元禄4年元旦(1691年1月29日)に昭儀坊で亡くなったという。享年は80歳程度と推定されている[1][2]。
1973年、大谷派は学匠として了意を顕彰し、学階嗣講を追贈した[1]。
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著書
仮名草子の代表的な作者と位置づけられ、仏教学者・唱導家として仏書や訓詁注釈書も数多く著した[1]。仏書は明治・大正期に至るまで、布教資料として活用された[1]。
仮名草子
仮名草子だけでも30部余りの作品がある。
名所記
その他
校訂本
- 2007年8月より『浅井了意全集』(岩田書院、全19巻:予定)の刊行が開始されている。
関連項目
脚注
参考文献
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