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淡島寒月
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淡島 寒月(あわしま かんげつ、本名: 淡島
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広範な知識を持った趣味人であり[2]、元禄の作家井原西鶴を再評価し[2]、幸田露伴や尾崎紅葉などとともに文壇に紹介したエピソードで有名である。
収集家としても有名であり、住居の梵雲庵には3000あまりの玩具と江戸文化の貴重な資料があったが、関東大震災の際に全て焼失した。
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略歴
日本橋馬喰町4丁目に生まれる。淡島家の家業は軽焼きの名店淡島屋であり、非常に裕福であった[2]。父親の椿岳には160人の愛妾がいたという。
1870年、福澤諭吉を読んで西洋文化に興味を持つようになり、英語を勉強し洋間に住んだ。頭髪に灰汁をかけて染髪までしていた。寒月は西洋文明への憧れのあまり、アメリカに帰化しようと願い、アメリカでは日本のことを聞かれると思い、日本文化を研究し始めた。
1880年、湯島聖堂の図書館に通い、草双紙を毎日書写する。この時、山東京伝を読んで西鶴のことを知る。1887年頃、文学者の露伴や紅葉らと知り合い、西鶴を紹介する。このことが明治における西鶴再評価に繋がった。
1893年、前々年から雑誌や新聞への寄稿を止め、向島の梵雲庵で隠居生活に入る。この頃、キリスト教の洗礼を受ける。しかし、「宗教観からというよりは、外国の文化に接するためであった」と、後に述懐している。
1923年9月1日、関東大震災により、梵雲庵全焼。収集物を全て失う。同年12月、梵雲庵再建。
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著作
脚注
参考資料
外部リンク
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