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清岡公張

日本の武士、官僚 ウィキペディアから

清岡公張
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清岡 公張(きよおか ともはる、1841年8月26日天保12年7月10日) - 1901年明治34年)2月25日)は、日本武士土佐藩士)、官僚従二位勲一等子爵[1]。通称は半四郎、号は東望

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清岡公張(1898年)

略歴

1841年、土佐藩郷士の子弟として土佐国安芸郡田野浦に生まれる。伊勢へ遊学し、のちに上洛して諸藩の勤王の志士と交わった。文久年間に上京し、藩命により三条実美の衛士となる。八月十八日の政変による七卿落ちの際には、七卿に同行して長州藩に亡命する。禁門の変では長州藩と共に参戦するが敗北し、再び長州へ逃れている。

乾退助に脱藩を提案

慶応3年9月9日1867年10月6日)、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、乾退助が江戸の土佐藩邸に勤王派浪士を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、寺村左膳に対し密告を行った。行秀は乾退助が水戸浪士(もと天狗党)・中村勇吉に宛た書簡の写しを証拠として所有しており、退助の失脚を狙って左膳に密告したものである[2]。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」という話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、退助の身を心配し土佐勤王党の一員であった島村寿太郎武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は、

退助は暴激の擧(きょ)多けれど、毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも余(容堂)は彼(退助)を殺すに忍びず[3]山内容堂

と答えたため退助は命拾いをしたという[4]

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維新以降

維新後は新政府に出仕し、地方官を皮切りに、1883年(明治16年)からは元老院議官宮内省図書頭、貴族院子爵議員(1890年7月10日[5]-1891年5月28日[6])などを歴任した。1887年(明治20年)には維新の功により子爵を授けられた。1890年(明治23年)10月20日、錦鶏間祗候となる[7]1891年(明治24年)、勲一等瑞宝章1897年(明治30年)ロシア皇帝ニコラス戴冠式に参列後、欧米巡遊を行う。1898年(明治31年)枢密顧問官に就任する[8]

1901年2月、死去。享年60。墓所は、東京都文京区護国寺

栄典

勲章等
外国勲章佩用允許
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親族

  • 父:清岡春勝 - 郷士
    • 兄:清岡成章(道之助) - 長男邦之助の岳父に福沢諭吉。その長男暎一の妻は杉本鉞子の娘。
    • 本人:清岡公張
    • 妻:清岡覚子(歌人)沢簡徳の二女[17]
      • 長男:清岡弥
      • 二男:清岡龍(1875-1942) - 公張没時に襲爵。岳父に帝国済民会設立者・原十目吉。子に清岡繁栄。[18][19]
      • 三男:清岡三麿(1876-1950) - 兄没後に襲爵。専売局副参事[20]。妻の多満は元弘前藩士・飯田巽の三女。
      • 四男:清岡真彦(1879-1952) - 妻の勇子(1892年生)は出雲国造・第81代千家尊紀の娘[21][22]
      • 長女:阪本新子(1880年生) - 阪本三郎の妻[22]
      • 三女:滋野和香子(1889-1910) - 男爵・滋野清武に嫁ぐ[22]。長女・露子をもうけた後に早世。

脚注

参考文献

関連項目

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