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清水宗知

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清水 宗知(しみず むねとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。備中国国人清水宗則の子[1]。弟に清水宗治[1]難波宗忠[1]。子に清水行宗通称は六郎兵衛[1]。入道後の月清[1]という名で知られている。

概要 凡例清水宗知, 時代 ...

生涯

備中国国人清水宗則の長男として生まれた[1]庶子であったのか、清水氏家督は弟の宗治が継いでいる。別の文献では、武者修行のため諸国を遍歴し、家督を継がなかったとする[1]

しかし、宗知もその勇猛さでは弟に負けておらず、永禄11年(1568年)の立花鑑載の反乱でも、鑑載の支援の将として九州に渡り、大友氏と戦っている。

天正10年(1582年)の備中高松城の戦いでは、弟の宗治と共に備中高松城に入り防備を固めたが、羽柴秀吉によって水攻めを受ける。

6月4日、最終的には兵士の助命を条件として開城し、弟の宗治や難波宗忠小早川氏からの援将・末近信賀と共に切腹した[1]

嫡男の行宗が跡を継いだ。

脚注

参考文献

関連項目

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