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渡辺勘兵衛 (石田家臣)
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渡辺 勘兵衛(わたなべ かんべえ)は、安土桃山時代の武士。石田三成の家臣。諱は不明。別名で新之丞(しんのじょう)とも書かれ、渡辺新之丞ともする。『佐和山落城記』[1]の登場人物で、石田三成に付き従った家臣の1人としてその名が見られる[2]。
略歴
前歴や出身は不明[4]。
柴田勝家や羽柴秀吉から2万石での誘いを受けた豪傑で、他の大名の間でも評価が高い人物であったが、 勘兵衛はそれらの誘いをすべて断った。その後、秀吉の家臣である石田三成に仕えた[2]。当時、三成は禄高500石の小姓であったので、不思議に思った秀吉が訊ねると、三成は「自分の500石の知行全てを与えた。勘兵衛に自分が100万石取りになった際に10万石を与える約束をして召し抱えた」と話した。三成の大志に感嘆した秀吉が三成自身はどうするのかと問うと、「勘兵衛の家に居候になります」と聞いて大笑したとの話が伝わる[2]。
後に、三成が佐和山城主となると、勘兵衛の知行を加増しようとしたが、勘兵衛は「殿が100万石の大名になるまで知行500石のままでいます」と固辞し、加増を断った[2]。500石のままで居続けたという[5]。
関ヶ原の戦いでは、主君の三成に従い西軍に属する。黒田氏の家臣で勇猛で知られた後藤基次と一騎討ちをする[6]など活躍するが、西軍の敗走に伴って重傷を負った[2]。自害する前に、今生の名残にと三成に会いに行くと、三成は勘兵衛の手を取って「そなたの10万石も、夢となってしまった」といたわった[2]。勘兵衛は三成にそれまでの恩義に対する感謝を述べると自害した[2]。
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渡辺甚平
渡辺勘兵衛は『佐和山落城記』で三成に最後まで付き従った3人の家臣の1人「渡辺甚平」(勘平)という名で登場するが [7]、渡辺勘兵衛は9月15日に関ヶ原の戦いで自害しているため、別人説や命日の誤伝説などが挙げられるも詳細は不明。
脚注
参考文献
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