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渡辺重 (出雲守)
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渡辺 重(わたなべ しげる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松永久秀の家臣・奉行人。
生涯
渡辺氏は摂津渡辺津(大阪市中央区)の豪族で、水軍として活動し、渡辺党を形成していた[1]。渡辺重はその渡辺氏の一族で、三好長慶の家臣であった松永久秀に登用されたと見られる[1]。また、同族と思われる渡辺兵衛尉も久秀に仕えた[1]。さらに、弟の渡辺昌は足利義昭次いで豊臣秀吉に仕え、同族と思われる渡辺植は三好義興に登用されている。重は主に久秀の奉行人として活躍した[1]。
永禄2年(1559年)、久秀によって多聞山城が築城されると信貴山城から移って在城したと見られる[1]。
永禄7年(1564年)、竜田川の水利権を巡って五百井村と竜田村で論争が起こった際、重は久秀が裁許を行うべきだとした上で、裁判を行っている間に作物が干害にあってしまうとして、久秀の重臣の竹内秀勝の解決案を五百井在所中という共同体に宛てて発給した[1]。
元亀2年(1571年)、久秀が永禄12年(1569年)以降中止していた興福寺の薪能を復活させた際、その薪能を見物した重臣として重の名が記されている[1]。同年8月4日、筒井順慶と久秀との間で辰市の戦いが起こり、一族の渡辺兵衛尉が戦死した[1]。
元亀3年(1572年)、11月16日、明智光秀の与力となった磯谷久次の嫡男、磯谷彦四郎の元服を祝う祝宴が開かれた際、重は弟の光秀の与力となっていた昌とともに祝宴に列席している[2]。同年、松永家家中で重の謀反の噂が流れ、松永久通が宿へ番を派遣し、重は東大寺穀屋で出家した[1]。
その後の動向は不明。
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脚注
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