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湯浅敏夫
アララギ派の歌人 ウィキペディアから
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湯浅 敏夫(ゆあさ としお、1908年(明治41年)4月13日[1] - 1994年(平成6年)10月19日[2])は、日本のアララギ派の歌人。ペンネーム: 杉 鮫太郎(すぎ さめたろう)[3]、岡山県岡山市出身[4]。位階は正五位。
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経歴
生い立ち
1908年(明治41年)岡山県岡山市に住む父・湯浅立太郎、母・いなよの長男として出生する[2]。その後、父が警察官であるため、岡山県内を転々と転勤し、岡山市内の小学校から、旧制岡山県立第二中学校(現:操山高校)入学を経て、旧制津山中学(現:津山高校)、旧制高梁中学(現:高梁高校)へ転校する[2][5]。高梁中学を1928年(昭和3年)に卒業する[6]。
卒業後
同年(昭和3年)、岡山県警察部へ就職し、通信技手として働く。元々、湯浅は短歌に興味があり、アララギの斎藤茂吉の短歌を書写していた。また、岡山県師範学校で斎藤茂吉、中村憲吉の講演を聴講し、これがきっかけとなり湯浅は、アララギへ入会する[2]。ペンネームは杉鮫太郎とした[3]。
斉藤茂吉との共著で、1938年(昭和13年)に『平賀元義歌集』を発刊したのを皮切りに、『平賀元義の歌』等を発表するなど[2]、湯浅は警察として働きながら、幕末期の国学者として有名な平賀元義の研究を行い、その名が知られていた[3]。第二次世界大戦後、湯浅はアララギでの活動で、戦後のアララギが土屋文明派一辺倒へと変貌していく過程で、斉藤茂吉系統は影を薄めていっており、湯浅もその影響からアララギへの投稿をやめ「関西アララギ」の客員として、その巻頭に作品を飾るようになり、晩年近くまでこの状態が続いた[7]。
1967年(昭和42年)59歳のときに、38年間務めた警察庁技官の職を引退する。その後は、岡山にある後楽園古陶館に勤務する[2]。1980年(昭和55年)に勲五等双光旭日章を受章する。また、同年、金重陶陽賞受章する[2]。この他、湯浅は、杉鮫太郎名義で『アララギ岡山』、『美作アララギ』を主宰し発刊していた[8]。
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主な著作物
- 『平賀元義歌集』1938年, 斉藤茂吉共著
- 『平賀元義の歌』1944年, 斉藤茂吉共著
- 歌集『哉生明』1949年, 斉藤茂吉共著
- 『岡山後楽園』1966年, 宗定克則共著
- 『岡山の鳥』1969年, 宗定克則共著
- 『岡山の短歌』1971年, 藤原幾多共著
- 歌集『飛鳥出林』, 杉鮫太郎著
- 歌集『路上黄昏』, 杉鮫太郎著
脚注
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