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源護

平安時代中期の武士。嵯峨源氏または仁明源氏。常陸大掾。子に源隆(-935.3)、源繁(-935.3)、裏(四子または弟) ウィキペディアから

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源 護(みなもと の まもる)は、平安時代中期の武士官位常陸大掾

概要 凡例源護, 時代 ...

略歴

源融
 
 
源副
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
源添
武蔵守
源運
下野掾
 
 
 
 
源元
山城守
源增
鎮守府将軍

素性は不明だが、一般的には一字名から武蔵権介の源宛(箕田宛)と同族の嵯峨源氏と推測されている[1]。『尊卑分脈』には、 - - 武蔵守源添下野掾の兄弟 - 鎮守府将軍(源運の子)[2]という系図が見出せ、この一族との関連が指摘されている[3]

護は常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐり度々争っていた。真樹はこの争いの調停を平将門に頼み将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を護の子・らが野本にて待ち伏せて襲撃したと言われている。また、『将門記』にある「女論」が襲撃の要因ともされ、詳しい経緯はわかっていない。いずれにせよ、この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる。

承平5年(935年)2月、将門との戦いで子の扶・は敗死、護の本拠はすっかり焼き払われ、その際、平国香は焼死したとされる。護は常々息子達の死を嘆いていたが、娘婿の平良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に平良兼と国香の子・平貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、承平7年4月7日937年5月19日)の朱雀天皇元服大赦によって結局は全ての罪を赦されてしまった。その後『将門記』にも名は登場せず動向は不明だが、ほどなく病死したと考えられる。

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系譜

登場作品

テレビドラマ

脚注

関連項目

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