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漢朝の君主一覧
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本稿、漢朝の君主一覧(かんちょうのくんしゅいちらん)では、中国の前漢王朝・後漢王朝の君主・皇帝を列挙する。漢王朝における皇帝とは、中国二番目の統一王朝である漢王朝内の最高権力者であった。漢王朝(紀元前202年 - 220年)は秦王朝(統一紀元前221年 - 紀元前206年)に続く統一王朝であり、漢王朝の崩壊によって三国時代(220年 - 265年)へと移行した。漢王朝は大きく前漢(紀元前202年 - 9年)と後漢(25年 - 220年)に分けられる。

漢王朝は、農民反乱の指導者であった劉邦(高祖)(在位:紀元前202年 - 紀元前195年))によって建国された。漢王朝で最長の在位期間を誇った皇帝は武帝(在位:紀元前141年 - 紀元前87年)で、54年間にわたる統治であった。外戚の王莽による簒奪によって、一旦漢王朝は断絶し新王朝が成立したが、王莽は23年10月6日に起こった反乱の中で殺された[2]。漢王室の血を引く劉秀(光武帝)(在位:25年 - 57年)が25年8月5日に即位し、漢王朝は再興された[3][4]。漢王朝の最後の皇帝となった献帝(在位:189年 - 220年)は、曹操の傀儡に過ぎず、曹操は朝廷を支配しつつ魏王になった[5]。220年12月11日、曹操の息子の曹丕(文帝)が禅譲を受け、漢王朝は終焉した[6]。
漢王朝の皇帝は政権における最高権力者であった[7]。皇帝は中央や州、郡、県の行政高官の任命権を持っていた[8]。さらに、立法権や裁判権をもち、漢王朝軍の最高司令官や、宗教的トップでもあった[9]。
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命名規則
要約
視点
皇帝


漢王朝よりも前、殷王朝や周王朝の君主は「王」を名乗っていた[11]。また、周王朝の頃には、天子と呼ばれることもあった[11]。紀元前221年、秦王政が六国を征服し、中華を統一すると、殷や周ら以前の「王」よりも位が高いことを示すために、新しく「皇帝」という称号を採用し、秦王政は「秦の最初の皇帝」として始皇帝と呼ばれている。「皇帝」という称号は、中国神話に登場する三皇五帝の称号を組み合わせて作られたとされている。以降、1911年に清が滅亡するまで、皇帝という称号は中国の歴代君主らが採用し続けた[12]。
諡号・廟号・元号
殷から隋までは、史料や二十四史などの歴史書において中国の君主(王と皇帝ともに)の名は諡号が用いられた。廟号は、前漢の景帝の治世中に初めて使用されたが、主に唐・宋・元の皇帝の名を記すことがほとんどである。明と清の時代には、一人の皇帝の治世にはただ一つの元号が使用されたために、明と清の皇帝の場合は皇帝在位中の元号を用いて呼ぶことが多い[13]。
元号は前漢の武帝によって正式に導入された。しかし、その起源はさらに昔にある。殷の時代から使用された最も古い年号の記録法は、君主の治世の最初の年を「1年」と定めるものであった。君主が死ぬと、新たな君主の治世が始まり、その君主の「1年」が始まった。この方法は紀元前4世紀までには変更されて、新たな君主の「1年」は、前の君主が亡くなった次の年の太陰暦における正月の1日目から始まるようになった。しかし必ずしも死ぬまで数えられるわけでもなく、反例も存在している。秦の恵文王が「王」の称号を紀元前324年に名乗ると、自身の治世の年数を「1年」に戻している[14]。前漢の文帝もまた、紀元前163年に治世の年数を「1年」に戻している[15]。
6は縁起の良い数字とされていたため、景帝と武帝は6年ごとに治世の年数を「1年」に戻すことにしていた[15]。この6年単位を元年、二元、三元などと呼んでいたが、紀元前114年 (五元三年) に、ある官僚がこの紀年法はあまりにも煩雑すぎるとして、宮廷に対して過去の6年単位の括りも改名するよう提案した。武帝は紀元前110年に、この提案を容れた[16]。武帝は当時、泰山にて封禅の儀式を行ったばかりだったので、新しい時代の名前を「元封」とすることとした。これが中国史上はじめて、元号が制定されたときとされる[16]。紀元前104年、武帝は太初暦を制定したため、元号を「太初」に改めた[17]。以降は前漢末期まで、皇帝の治世のうち4年ごとに新しい元号を制定するようになった。これが後漢になると、改元は政治的な理由や慶事を祝う際に行われることが多くなり、間隔は不規則になった[17]。
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漢朝の摂政と皇太后
特に幼帝が即位した際には、皇帝が成人するまで摂政(多くの場合皇太后や外戚)が皇帝の職務を代理で行う場合があった。しかし時々、皇后一派(外戚)がクーデターによって打倒されることもあった。例えば、劉邦の皇后呂后は、幼帝であった前少帝と後少帝の治世において、事実上の権力者であった[18]。しかし、呂氏一派は紀元前180年の呂氏の乱によって滅ばされ、文帝が皇帝となった[19]。武帝は紀元前87年に死ぬ前に、霍光・金日磾・上官桀の3人に後継者である昭帝の摂政を命じた。霍光と上官桀はともに昭帝の皇后である上官皇后の祖父であり、匈奴の血を引く金日磾は奴隷に落とされ馬番として働いていたが、次第に武帝に重用された。金日磾が死に、上官桀が反逆罪として処刑されると、霍光が単独で政治を行うようになった。霍光の死後、霍氏一派は、霍光が許平君を毒殺し、自身の娘である霍成君を皇后に立てたことへの報復として、宣帝によって打倒された[20]。
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一覧
要約
視点
→「漢王朝の家系図」も参照
以下は漢王朝の皇帝の一覧。名や諡号、在位中の元号などの情報も併記した。この一覧では、摂政や皇太后など、事実上の統治者とされる者は除外している。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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