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秦の統一戦争

春秋戦国時代の戦い ウィキペディアから

秦の統一戦争
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秦の統一戦争(しんのとういつせんそう)は、中国戦国時代末期に戦国七雄の他六つの諸侯国六国)を滅ぼし、中国を統一した戦争紀元前236年趙を滅ぼす戦いの開始から紀元前221年斉の滅亡まで15年間にわたった。春秋時代以来500年以上続いた諸侯の乱立が終わり、中国史上初の中央集権国家秦朝による支配が確立した。

概要 秦の統一戦争, 交戦勢力 ...
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背景

要約
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秦の台頭

秦は西方の辺境に位置し、元々は関中の小国であった。春秋時代には中原の諸侯国に比べて弱小であり、他国が覇を争う中、秦はしばしばその枠組みから排除されていた。

しかし、孝公の時代に商鞅が登用され、変法(改革) を実行したことで状況が一変する。貴族の特権や世襲の官職俸禄制度が廃止され、中央集権的な封建制が次第に確立されていった。「奨軍功、教耕戦(軍功を奨励し、農業と戦争を教える)」の政策によって軍事力を強化し、対外的には縦横家の策を用いて諸侯国と同盟を結び、戦いを有利に進めた。

司馬錯が南方の漢中巴蜀を併合し、北方では義渠隴西を滅ぼすなどして秦の領土は拡大した。さらに白起が趙・魏・楚・韓との戦争に勝利を収め、中原の広大な地域の大部分が秦の支配下に置かれることとなった。

商鞅の変法以来、秦の経済は急速に発展し、次第に国力は比類ないものになっていった。秦王政(後の始皇帝) が即位した時には、六国は衰退しており、唯一秦だけがますます強大化していた。

秦王政が即位した頃、李斯は上書の中で、「秦は天下を統一する条件を備えており、既に六国は秦の郡県同然」と指摘している。これは秦による天下統一が成就する段階にあったことを示していた。

六国の状況

元来、三晋(韓・趙・魏)の中で最も弱小の国であり、桓恵王の時代には既に秦に臣従を余儀なくされていた。秦王政の即位前後には韓の領土はさらに縮小し、陽翟とその周辺の十数の中小城邑を残すのみとなっていた。

北方の強国であり、武霊王の時代には胡服騎射を唱えて富国強兵を図り、国勢は大いに振るった。当時の趙は北は匈奴を防ぎ、南は秦に抗うなど四方を敵に囲まれた戦国であり、秦と互角に渡り合える国力を有していた。しかし、武霊王が死去すると趙はたびたび秦の攻勢に脅かされ、長平の戦いの大敗によって均衡は崩壊した。

戦国時代初期は最強の国であり、広大な地域を領有し、国土には山や河が縦横に走り、地勢は険要であった。しかし、秦の東進のために長年にわたり主要な標的となり、特に恵王以来、秦に敗れ続け、領土は次第に縮小していった。安釐王の治世末期には国勢はますます衰退していたが、信陵君が趙を亡国の危機から救い、諸侯国を合従させて河外の戦いで秦に大勝を収めたことで魏の威信は高まった。この勝利に乗じて魏は旧領を回復すべきであったが、安釐王は秦の離間の策に嵌り、信陵君を罷免してしまったことで魏は再起の機会を失ってしまった。

春秋時代から戦国時代を通じ、南方の大国としての地位を一度も失うことはなく、領土は5000里に及び、武装兵は百万、物産は豊富で穀物の備蓄は10年分にも及ぶなど、諸侯国の中でも随一の実力を持つ大国であった。しかし、鄢・郢の戦いで楚の都城が秦に占領されて以降、楚の勢力は大きく減退し、考烈王の治世期にはもはや単独で秦に対抗することは難しかった。

春秋時代初期は極めて弱小の国であったが、昭王の時代に国力を充実させ、領土を拡大し、国勢は日に日に強まった。しかし、燕王喜の治世期には、国境を接する趙や斉と友好関係を築かないばかりか、しばしば混戦を繰り返し、大いに国力が消耗した。その結果、六国の中では韓の上に位置する程度の弱小国となってしまっていた。

従来より東方の強国であった。しかし、秦王政の治世が始まる頃には、斉王建の失政により威王の時代に築き上げられた覇業は過去の遺物となっていた。斉王建は秦の間者の意見を鵜呑みにし、軍事を強化せず、秦と他五国の戦争を傍観するのみであった。

戦略

紀元前238年、秦王政は相国呂不韋や長信侯嫪毐などの勢力を排除して、親政を開始した。秦王政は六国併合の戦争を周到に計画し、李斯や尉繚らが補佐した。

秦が六国を滅ぼす戦略は二つの内容からなっていた。一つ目は、「諸侯を滅ぼし、帝業を成し、天下を統一すること」である。秦王政は尉繚が提言した、六国の合従策を打破するためには「財物を惜しむことなく、その君臣を賄賂で買収し、その謀略を乱す」という策略を採用し、敵国内部からの分断と瓦解を図った。

二つ目は、歴代の遠交近攻策を継承し、具体的な戦略的段階を確定したことである。李斯はまず韓と趙を攻めるよう進言し、「趙を攻略すれば韓は滅び、韓が滅べば楚と魏は揺らぎ、楚と魏が揺らげば斉と燕は弱体化する」と献策した。

つまり、燕と斉を懐柔し、楚と魏を安定させ、韓と趙を滅亡させた後、各個撃破して天下を統一するというものである。この戦略方針の下、統一戦争が開始された。

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統一戦争

要約
視点

鄴の戦い:趙との戦い(1)

紀元前236年、秦は中華の統一に本腰を入れ始めた。趙の将軍の龐煖に侵攻し[史記 1]、国内が手薄になっている隙を狙い趙へ侵攻した。総大将王翦[史記 2]副将桓齮、末将は楊端和である[1][史記 3]

まず、鄴の周辺の9城を落とした[1][史記 3]。そして、全軍を1軍として閼与と轑陽を落とした[1][史記 3]。18日後、王翦は兵糧の問題上、軍の10分の2の精鋭部隊を率い、鄴や安陽を落とす。[史記 3][2]

平陽の戦い:趙との戦い(2)

紀元前234年、桓齮は平陽に直行した[史記 4]。趙は扈輒を将とし平陽へ救援に向かわせ、秦軍と戦った[史記 4]。秦軍は十万の趙兵を平陽の城外で斬首し、趙の将である扈輒を討ち取った[史記 4][3]。翌紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[史記 5][4]。この2戦で趙は10万以上の兵を失った[史記 6]

肥下の戦い:趙との戦い(3)

紀元前233年、桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り[史記 7]、赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区の西南)を占領した[史記 7][4]。李牧率いる趙軍と秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した[史記 8][5][4]。桓齮の率いる秦軍のうち少数は包囲から脱し、秦国へ退却した[史記 8]。また『戦国策』によると桓齮は討ち死にしたとある[6][7]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻した。その功により李牧は武安君に封じられた[8][史記 8][史記 9]

番吾の戦い:趙との戦い(4)

紀元前232年、秦王は兵を大挙し、趙に侵攻した[史記 10]。軍は鄴城に到着し、その後太原に到着した[史記 10]。秦軍は狼孟番吾を占領したが[史記 11]、李牧が秦軍を撃破した[史記 11][5]。さらに李牧は秦からの国境まで領土を奪還した[史記 12][4]

韓攻略

紀元前230年内史騰が10万の軍を率いて黄河を南下した。韓の国都新鄭を落とし、韓王安は降伏し、韓は滅亡した[史記 13][史記 14][9]。韓の旧領は秦の潁川郡となった[10][11][9][史記 13][史記 14]

趙攻略

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李牧。秦の侵攻を撃退したのは楚の項燕と李牧の二人のみ。

紀元前229年との連合も情報が漏れ、旱魃地震災害[12][13] につけこまれ、秦に侵攻された。秦によって買収された悼襄王お気に入りの重臣郭開の讒言により、秦軍を撃退し続けた李牧が殺された。また、司馬尚も更迭された[10]幽繆王趙葱顔聚を率いて迎え撃ったが敗れ、趙葱は戦死した。

紀元前228年、国都邯鄲が落ちた。趙・幽繆王と顔聚が捕虜となり、趙は滅亡した。逃げ延びた趙の大夫らは、代の地で趙幽繆王の兄の趙公子嘉を擁立し、代国とした[注 2][10][11][14]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の太后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして、秦へ戻った[14]

秦王政の暗殺未遂、燕の策略

背景

は弱小な国であった[15]太子丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった[16]。政が秦王になると、丹は秦の人質となり12年間、咸陽に住んだ[17]。このころ、彼に対する秦の扱いは礼に欠けたものになっていた[14]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという[注 3][14]。丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[19]

両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[15]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[15][20]

荊軻

荊軻はの人[注 4] であった[21]。読書と剣術を好んで修行、日々酒を酌み交わし、若くして諸国を放浪して遊説術を学んでいた。

荊軻は、諸国の旅から衛に帰国した後に官僚を志して、の君主である元君に謁見し、旅で学んだ遊説術に基づいた国家議論を大いに述べたが、元君は全く聞き容れなかった[22]。こうして荊軻は挫折しそれ以来遊侠に身を投じた。ある時に剣術論のことで智蓋聶という者と言い争って喧嘩になりかけたが、智蓋聶が荊軻を睨むと荊軻はすぐに退散した[23]。また邯鄲を訪れたとき、六博の規定をめぐって魯句践という者と喧嘩になりかけたが、魯句践が凄んで荊軻に対して大声を出すと荊軻はすぐに退散した。こうして荊軻は臆病者と笑われたが、荊軻はいたずらに些細な事で命を落とす危険を冒すことはしなかった[24]

その後、に入り、一人の狗殺人と高漸離という(ちく、弦楽器の一種)を良く奏でる者と親しくつきあった[注 5]。燕の市に行っては酒を飲み酔いしれ、高漸離の筑の伴奏で市中で歌い楽しみ、やがては泣き始めるという有様は、あたかも周りに誰も存在しないかのようであった(傍若無人)。酒飲みとつきあう状況でも荊軻は読書を好み、各地の賢人や豪傑・有徳者たちと相結び、やがて当地の実力者の田光に賓客として遇された[25]

刺客

政に対して刺客を送ることを考えた丹は田光に相談し、田光は荊軻を推挙した[16]。丹が帰る時に「この事はご内密に」と言ったことで、田光は荊軻に話を告げた後で「太子に疑念を持たせたのは私の不徳の為すところだ」と自ら首をはねた[26]

刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い政に謁見するための策を考えた。その策とは、一つが、燕でも最も肥沃な土地である督亢(とくごう、現在の河北省保定市涿州市高碑店市)を差し出すこと。もう一つが、もとは秦の将軍で、政の怒りに触れ一族を処刑され、燕へ逃亡してきていた樊於期の首を差し出すこと[27][28]

これをすれば政も喜んで荊軻に会うだろうと丹に提案するが、丹は領地割譲はともかく、自分たちを頼って逃げてきた人間を殺すことはできないと断った。彼の苦悩を慮った荊軻は直接、樊於期に会い「褒美のかかっているあなたの首を手土産に、私が秦王にうまく近づき殺すことができたならば、きっと無念も恥もそそぐことができるでしょう」と頼んだところ、樊於期は復讐のためにこれを承知して自刎し、己の首を荊軻に与えた[注 6][29]

丹は暗殺に使うための鋭い匕首を天下に求め、遂に趙の刀匠徐夫人の匕首を百金を出して手に入れた。この匕首に毒で焼きを入れさせ死刑囚で試し斬りを行なったところ、斬られて死なぬ者はいなかった[30]

旅立ち

紀元前227年、丹は刺客の相棒として秦舞陽と言う者を荊軻に付けようとした。秦舞陽は13歳で人を殺し、壮士として有名であったが、荊軻は秦舞陽のことを頼りにならぬ若造だと見抜き、遠くに住む旧友を同行者に加えようと待機していた。しかし丹が荊軻の出発をたびたび急かし、怖気づいたのではないかと疑いはじめたため、荊軻は仕方なく秦舞陽を連れて出発することに決めた[31]

やがて出発の日が訪れる。丹をはじめ、事情を知る見送りの者は全て喪服とされる白装束を纏い、易水(えきすい、黄河の北を流れる)のほとりまで荊軻たちにつき従った。彼らは全て涙を流し、荊軻の親友の高漸離は筑を奏でて見送った。この時に荊軻が生還を期さない覚悟を詠んだ

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず 風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還

という詩句は、史記の中で最も有名な場面の一つされる[32][28]

これを聴いた士たちは、だれもが感情の昂ぶりの余りに凄まじい形相となった。そして荊軻は車に乗って去り、ついに後ろを振り向くことは無かった[33]

暗殺未遂

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逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠石室。

秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽を供に連れ、督亢の地図と秦の裏切り者の樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ[14][15][34]。秦舞陽は手にした地図の箱を差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た[15][35]。受け取った秦王政が巻物の地図をひもとくと、中に隠していた匕首が最後に現れ、荊軻はそれをひったくり秦王政へ襲いかかった[36]。秦王政は身をかわし逃げ惑ったが、護身用の長剣を抜くのに手間取った[15][37]。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった[38]。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり[16]、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り伏せた[39][15][40][41][42]

燕の壊滅

秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた[43][44]紀元前226年、国都を落とした[45][46]。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された[41]。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願った[18][41][47][48][49]。しかしその講和もつかの間のものに過ぎなかった。

魏攻略

紀元前225年王翦の子の王賁が60万の兵を率いて、魏を攻めた。魏王假は国都大梁に籠城し、水攻めを受けた。魏王假は降伏し、魏は滅亡した[50][51]

楚攻略

紀元前225年秦王政は、楚を征服したいと思い、対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した[1]。李信は、「20万」で充分だと語った[1]。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った[1]。政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた[1]

李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍に大勝した[1]

さらに、李信と蒙恬は、楚の首都(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る[1]

しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の武将を失う大敗を喫した(城父の戦い[注 7][52][1]

紀元前224年、秦の武将王翦がまたもや60万の大軍を率いて楚に進攻、王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は俘虜となり、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。

紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡し[注 8]九江郡となった。

紀元前222年、秦は大いに兵を輿して、王翦と蒙武はついに楚の江南を平定する。また、東越の王を降して、会稽郡を置いた。

燕と代の滅亡

紀元前222年王賁遼東に燕と代を滅ぼすため侵攻した。代王嘉燕王喜は捕虜となり代と燕は滅んだ[53][54][55][56]。この時点で趙の滅亡とすることもある。

斉攻略

前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后中国語版が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した[57]。后勝はから賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した[57][58]。田建は后勝の主張を聞き入れ五国()の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった[57][58][59]

五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊は西部の辺境に集結した[60]前221年秦王政斉の攻略王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した[60][61]。田建は降伏し、斉は滅亡した[62]。田建はの旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した[63][64]。斉の地に斉郡瑯琊郡を置いた。は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった[65]

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統一

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始皇帝

秦の王は初めて「皇帝」と名乗った[66]。統一後は、重臣李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した[66]。従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制から、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一[67]、道路整備・交通規則の制定などを行った。万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの後世に残ることになった大事業も行った。法家)による統治を敷き、批判する儒者や書物の弾圧を行った焚書坑儒も知られる[20]

統一後の軍事行動

南方への拡大

紀元前214年に始皇帝は大軍の一部(10万人)と共に北の国境線を固め、南の部族の領域を征服するために南方に軍の大半(50万人)を送った。中国に対する秦の支配に優先する事象に先立ち、南西の四川の多くを獲得していた。秦はジャングルでの戦いに慣れておらず、南方部族のゲリラ戦で10万人を超える損失を出して敗北した。しかしこの敗北で秦は南方への運河の建設に成功し、南方への第二次攻撃で軍を送り補強するのに大いに用いられた。こうしたものの建造で秦は広州[注 9] 周辺の運河地帯を征服し、福州桂林という地域を獲得した。ハノイに至る南方まで攻撃した。南方でのこの勝利の後、始皇帝は10万を超える捕虜を移動させ、新たに征服した地域の植民地化のために移住させた。帝国の境界線の拡張期間に始皇帝は南方で非常に成功した[68]

匈奴に対する軍事行動

しかしこの時期の帝国が北方に拡大する一方で秦は長期間その土地に踏み留まれたことは滅多になかった。秦が纏めて五胡と呼んだこの地域の部族は、秦の大半の時代は中国の支配を受けなかった[69]。秦の農民との取引が禁止され、中国東北地方のオルドス地方に住む匈奴は、秦が報復するよう促しながら代わりに侵攻することが珍しくなかった。紀元前215年の蒙恬将軍による軍事作戦後、この地域は秦に征服され、農業が始められたが、農民は不満を抱き、後に暴動を起こした。

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脚注

参考文献

関連作品

関連項目

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