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熊谷直彦
1829-1913, 江戸時代末期~大正時代の日本画家、芸州藩士 ウィキペディアから
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熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。父は賀茂神社の神職・山本季金。幼名を藤太郎と言った。

生涯

京都出身。1841年(天保12年)の時、四条派の有力な画家であった岡本茂彦に入門、名を季彦、のち直彦と改める。茂彦の死後は独学で日本画の技術を磨いた。1844年(弘化元年)に、芸州藩京都詰衣文方であった熊谷左門の養子となって、熊谷直彦と名を改めた。
幕末になると芸州藩士として国事に打ち込むようになり、尊皇攘夷論者として活動した。芸州藩執政・関忠親(蔵人)との関わりもあり、1862年(文久2年)5月に広島に入り、関の側近となった。同年8月には、野村帯刀に従って上京した。後に京都留守居役にも任じられた。
明治維新が成就、版籍奉還が行われた後は、広島藩大属となった。その後東京に出て、積極的に絵画の道を再び歩み活躍、諸国を遊歴して山水景勝を自家薬籠中の物とした。1884年(明治17年)第2回内国絵画共進会に「大江山」「鯛」を出品し銅賞を受ける。また、明治宮殿造営に際し、杉戸絵を手がける。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に「雨中山水」、1900年(明治33年)パリ万国博覧会でも同名の作品を出品。1898年(明治31年)旧主浅野候から厳島神社に奉納された「滄海日出」「山頭初月」を制作。日本美術協会で活躍し、1903年(明治36年)日本美術協会秋季展で特別賞状を受賞。それらの功績を認められ、1904年(明治37年)4月16日に帝室技芸員となった[1]。東宮御所の新築に際しては杉戸の絵を描いた。
1913年(大正2年)没。墓所は豊島区駒込の染井霊園。山水・人物画を得意とし、養父との関係から衣冠束帯、有職故実に通じていた。
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作品
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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