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牛山鶴堂
明治時代の翻訳家、小説家、新聞記者 ウィキペディアから
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牛山 鶴堂(うしやま かくどう、明治2年8月29日(1869年10月4日) - 1906年(明治39年)3月3日)は明治時代の翻訳家、小説家、新聞記者[2]。1887年(明治20年)頃英文学の翻訳や政治小説を手がけた後、朝野新聞・中外商業新報で記者として活動した。
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経歴
明治2年(1869年)8月20日[3]信濃国諏訪郡下諏訪町に[2]大工牛山伝次の長男として生まれた[3]。本籍は同郡四賀村[2]。幼くして父に大工業を習った[2]。1875年(明治8年)下諏訪小学校に入学し[3]、1882年(明治15年)近所の温故義塾で西師意に学問を学んだ[2]。
1883年(明治16年)上京し[2]、尾澤琢郞等と同宿しながら職を探した[4]。1884年(明治17年)共立学校に入学して英語を学び、年末修業した[3]。1886年(明治19年)発表した『梅蕾余薫』が人気を博し、神田区五軒町20番地から末広町12番地に転居した[4]。また、この頃赤峰瀬一郎の実学会英学校に関係し[5]、同校教員天野為之との関係が後の新聞社等への就職に繋がった[6]。
1887年(明治20年)著作を多数発表した後、諏訪に帰郷し、英語を教えた[7]。1888年(明治21年)10月15日から1889年(明治22年)4月23日まで埼玉県第一部庶務課雇員を務めた後[8]、『自治新誌』に「英国々会議院史」「欧米諸強国形勢一班」等の翻訳を連載したが、1890年(明治23年)6月廃刊し[9]、9月朝野新聞に入社した[3]。
1892年(明治25年)帰郷し[3]、新聞経営を持ちかけられるも断った[1]。1893年(明治26年)6月20日独逸伯林本会日本東京支会国際法特別講修科を修業している[1]。
1894年(明治27年)5月『中外商業新報』に入社し、1895年(明治28年)3月戦況通信のため近衛師団への従軍を出願して[3]日清戦争に従軍[1]、1896年(明治29年)頃関東地方の蚕糸業を取材したほかは[10]、主に外国関係の記事を担当し、西郷従道やメキシコ公使館と関係を持ったという[11]。
医学を独学し、1902年(明治35年)頃深川区に海浜病院の建設を計画したが、実現しなかった[12]。
1906年(明治39年)3月3日腎臓病により日本橋区亀島町一丁目64番地の自宅で死去し、下谷区谷中の功徳林寺に葬られた[12]。戒名は真如院円誉実相観月居士[12]。
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著書
- 『新訳 魯敏孫漂流記』
- 1887年(明治20年)3月刊。『ロビンソン・クルーソー』抄訳。跡部素山校補。これ以前にも同書の訳本は多数あり、翻訳の質は井上勤『漂流奇談』(ママ)に劣る[16]。
- 『双鸞春話』
- 1887年(明治20年)3月刊。ベンジャミン・ディズレーリ『ヘンリエッタ・テンプル』抄訳。跡部素山校補。布亜地南土(ファーヂナンド)と娩孋威嫷(ヘンリエッタ)、門土保徳(モントフォート)と嫭是拉婉(カゼライン)の2組の「双鸞」の恋愛を描く[17]。
- 『野州那須郡高林村大字青木ノ営業ニ関スル訓旨大綱』
- 1891年(明治24年)11月刊[25]。
- 「稲妻銀行」
- 挿絵のみ現存。元は小説か[22]。
- 「内臓組織解剖図原稿」
- 西洋医学書の抜粋[12]。
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家族
脚注
参考文献
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