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牟岐浦異国船漂着事件
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牟岐浦異国船漂着事件(むぎうらいこくせんひょうちゃくじけん)は、1830年1月(和暦: 文政12年12月[注釈 1])にイギリスの旗を掲げた異国船が阿波国(現在の徳島県)に現れた事件。この船は牟岐浦(現在の海部郡牟岐町)沖に3日間にわたって停泊したが、同地を治める徳島藩が異国船打払令に従って砲撃を加えたために退去した。キプロス号事件(キプロスごうじけん)[3]、異国船牟岐浦漂着事件(いこくせんむぎうらひょうちゃくじけん)などとも記される。

この船は、現在のオーストラリア・タスマニア島でイギリス政府が輸送船として用いていたサイプラス(キプロス)号[注釈 2]であるが、囚人たちが奪取して航海中であった。このため「海賊船」と表現されることもある[4]。この事件は「日本とオーストラリアの最初の接触」と見なすことができる[2][5]。
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解説
背景
徳島藩と異国船との接触は、明和8年(1771年)にロシア船が牟岐・日和佐沖に現れたことに始まる[6](モーリツ・ベニョヴスキー参照)。以後、たびたび異国船の出没を受けた徳島藩では、海防体制を整えた[6]。
文政8年(1825年)、江戸幕府は異国船打払令を出した。
事件の推移
文政12年12月11日(グレゴリオ暦(以下GC): 1830年1月5日)、土佐国野根(現在の高知県安芸郡東洋町野根地区)の沖合で異国船が漂流しているのが発見された[1]。異国船は15日、足摺岬沖で一旦見失われた[1]。
12月20日(GC: 1月14日)午前9時ごろ、異国船は阿波国海部郡の日和佐浦(現在の美波町日和佐地区)沖に現れ[1]、午後3時ころに牟岐(現在の牟岐町)沖の出羽島付近に移動して[1]投錨した[7]。徳島藩側(海部郡代[7])は海岸部一帯に総動員体制を敷くとともに[7]、異国船に対して発砲を行うなどの威嚇を始めた[1]。
徳島城には午後7時頃に第一報が届き[1]、翌21日朝には異国船打払の方針が決定された[1]。郡代の山内忠太夫ら(同行者に那賀郡代手代の浜口巻太が含まれる)が派遣されて22日午前1時頃に牟岐に到着[1]。現地で指揮を執っていた郡代の三間勝蔵から報告を受けた[1]。
22日朝、浜口巻太は異国船探索を命じられた[1]。浜口は漁師になりすまして異国船に接近し[1]、乗員と接触して身振り手振りでの交渉を行うとともに[5]情報を収集した[1]。浜口は昼頃に復命した[1]。
この間、出船を交換条件として薪水を与えたが、異国船は動かなかった[1]。山内は、日和佐陣屋に備え付けていた「蛮国船印図」で異国船の掲げる旗を調べたところ、それがイギリスの旗であることが判明したため、打ち払いの徹底を決意した[1]。
12月23日(GC: 1月17日)[4]、徳島藩側は異国船に対して攻撃を加え、異国船は被弾した[1]。異国船からは風を待って出船するとの知らせがあり、しばらくして異国船は出船した[1]。
記録
徳島藩側の記録としては、廣田勘左衛門がまとめた報告書『文政十二年十二月異国船牟岐浦漂着一件留書』や、浜口巻太(号は
関連資料を翻刻・出版したものとして、『文政十二年十二月 異国船牟岐浦漂着一件』(徳島の古文書を読む会一班)がある。
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サイプラス号
要約
視点

サイプラス号は1816年にイギリスで建造されたブリッグ(帆船の一種)である。1829年の時点では政府所有の船として、イギリスの流刑植民地「ヴァン・ディーメンズ・ランド」(現在のオーストラリア・タスマニア島)において、首府ホバートとマコーリー・ハーバーの刑務所 (Macquarie Harbour Penal Station) とを結ぶ囚人や物資の輸送船として運用されていた。1829年8月14日、ルシェルシュ湾 において囚人が反乱を起こし、船を奪取した(サイプラス号の反乱)。囚人の中で船員経験のあったウィリアム・スワロウ(William Swallow)を船長としたサイプラス号は、いくつかの島に立ち寄りながら中国の広州まで航行した。のちに、逃亡した反乱者たちの一部は英国当局によって捕らえられて裁判にかけられ、「海賊」として処刑された(1830年12月16日にロンドンで処刑された2人は、海賊の罪によりイギリスにおいて絞首刑に処された最後の事例である)。
ウィリアム・スワロウはイングランド北東部の生まれで、故国には妻子もあったが、窃盗の罪により1821年にタスマニアに流された[8]。タスマニアでも軽犯罪の廉で捕らえられ、ホバートからマーコーリー・ハーバーへの移送されることになったが、その途中でこの反乱に加わった[8]。反乱事件の裁判では死刑は免れたもののタスマニアに送還され、1834年5月にポート・アーサーで死去した[8]。当時のイギリスでは軽微な罪でもオーストリアへの流刑が行われており、流刑地では流刑囚を使役する農場主の不当行為が横行し、刑務所では圧制が行われていた。こうした状況を背景として、その生涯にたびたび拘束下からの脱走をおこなったスワロウは、自由を求める反逆者というイメージで語られることになった[8]。オーストリアではこの事件を題材にした民謡(フォークソング)が作られ[4][8]、スワロウを主人公にした冒険物語が刊行されるなど、サイプラス号の反乱は知られた事件であり、研究書籍も何冊か著されている[5][8]。法廷で反乱者たちは日本に立ち寄ったことを証言したが、英語圏の研究においては十分な傍証が得られないとされてきた[2]。
日本においては英語圏の書籍をもとに、異国船打払令のもとで日本側が「サイプラス号」という名の英国船に砲撃を加える事件があったことが知られていたものの、場所や状況など具体的な情報を欠いていたため、徳島藩におけるこの事件と結びつけられてはいなかったようである[注釈 3]。徳島県において、この事件は「徳島藩政史上最も有名な異国船漂着事件」[7]と評されるように地方史の大きなトピックであったが、いずれへとも知れずに去った異国船の素性は、掲げる旗からイギリス船と見られる以外不詳のままであった[7]。
2015年、牟岐町と縁のあるイギリス出身の英会話講師ニック・ラッセルが、徳島県公文書館ウェブサイトに掲出されていた『異国船舶来話并図』の図像[1]を見たことから、この異国船漂着事件に関心を持った。ラッセルは史料の検討・調査を進め、牟岐浦に現れた船をサイプラス号と同定した。その結論は2017年に発表され、日本・イギリス・オーストラリアなどのメディアが報じた[4][5]。
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日本初のブーメラン投擲
『文政十二年十二月異国船牟岐浦漂着一件留書』には、徳島藩士らが船に接近した際に投げ込まれた「く」の字の物体が記されており、オーストラリアのアボリジニが使用していたブーメランではないかと考えられている[12]。
脚注
関連項目
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