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牧野正迪
大日本帝国陸軍軍人 ウィキペディアから
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牧野 正迪(まきの まさみち、1883年(明治16年)3月19日[1] - 1947年(昭和22年)4月3日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]。
経歴
鳥取県出身[1]。陸軍士官学校第17期、陸軍大学校第27期卒業[1]。1921年(大正10年)7月に陸軍騎兵少佐に進級し、1923年(大正12年)9月時点で陸軍兵器本廠附の任にあり[3]、1924年(大正13年)9月時点で飛行第3大隊附に転じた[4]。1925年(大正14年)5月に航空兵科に転科し、同年8月に陸軍航空兵中佐に進級し、飛行第3連隊附となった[5]。同年12月に明野陸軍飛行学校研究部主事兼同校教官に就任し[6]、1926年(大正15年)12月に飛行第7連隊附となった[7]。
1928年(昭和3年)1月、台湾軍参謀に転補され[2]、1929年(昭和4年)3月に陸軍航空兵大佐に進級し[2]、同年8月に飛行第1連隊長(第3師団[8][9])に着任した[2]。1931年(昭和6年)8月に第12師団参謀長に転じ[2]、1932年(昭和7年)10月には関東軍飛行隊長に就任し[2]、満洲事変に出動[1]。地上部隊と協同して戦果を挙げた[1]。
1933年(昭和8年)12月20日、陸軍少将進級と同時に陸軍航空本部検査部長に着任し[1][2]、1935年(昭和5年)8月に陸軍航空本部総務部長に転じた[1]。1937年(昭和12年)8月に陸軍中将進級と同時に浜松陸軍飛行学校長に就任した[1][2]。1938年(昭和13年)6月には新設部隊の第1飛行集団長に就任し[1]、1939年(昭和14年)8月1日に待命となり[1]、8月31日に予備役に編入された[1]。
予備役編入後は満洲航空取締役社長を務め[10]、1942年(昭和17年)9月11日まで在任した[11]。後任は藤田朋[11]。
相沢事件
相沢事件の被告となった相沢三郎は1936年(昭和6年)5月7日に第1師団軍法会議で死刑判決を言い渡された[12]。5月8日に相沢は三月事件、十月事件関係者を公判にかけるべきとの趣旨から上告した[13]。それにより、第1師団高等軍法会議が構成され、陸軍航空本部総務部長であった牧野が裁判長に就任した[14]。審理は書面審理のみで、同年6月30日に相沢に対して上告棄却を言い渡した[14]。
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脚注
参考文献
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