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独立門
下関条約による独立後に、清への服属を象徴していた迎恩門を破壊して建築された記念建築物 ウィキペディアから
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独立門(どくりつもん、朝: 독립문)は、大韓民国ソウル特別市西大門区峴底洞(ヒョンジョドン)101番地の西大門独立公園内にある門。日清戦争後の下関条約で李氏朝鮮の清からの独立が認められたことを記念し、独立協会により建立された[1]。

1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成。徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチンが設計をし、韓国人建築家の沈宜錫が施工[2]。扁額は李完用の作品である。
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概要

高さ14.28 m、幅11.48 m。約1,850個の御影石からフランス・パリのエトワール凱旋門を模して造られた。史跡第32号(1963年1月21日指定)。1979年、整備事業により本来の位置から北西に70 m移動された。
日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせた。これにより、李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家として歩み出すことになり、清への服属を象徴していた迎恩門を壊した。その後登場する独立協会が、迎恩門の跡地のすぐ隣に独立門を建てた。さらに迎恩門に隣接していた慕華館(모화관)は、独立協会の事務所として独立館(독립관)と改名された。独立門は独立協会が中心となった募金活動によって建てられた。
勅命によって独立協会が解散されたのち、独立館は一進会の演説会場となり、聴衆が増えて独立館が手狭となったため、その北側に八角堂が建設された[4]。
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「何」からの独立への誤解
→「宗主国」も参照
日本が清に勝利したことで1895年に下関条約が結ばれた。これによって、「清に李氏朝鮮の独立を認めさせた」ことで出来た清からの独立を記念したものである。しかし韓国内では、下関条約で日本によって清から独立させてもらうまで丁丑約条以来に約250年間と長きに渡って李氏朝鮮は清国の属国だったという歴史をきちんと教えておらず、日韓併合や日本統治時代を詳しく扱うことが多く、そこに対する感情がかなり強いものであるため清からの独立門という点への知名度が低い[5]。光復節のように日本からの「独立」記念と混同する人々が後を絶たず[6]、そのために2010年代以降でさえも独立門はいまだに「日本からの独立」を記念する門であると誤解・勘違いしている人が多い[7][6][1]。
主な出来事
アクセス
- ソウル交通公社3号線 独立門駅下車徒歩5分
関連項目
- 丙子の乱-清は敗北させた李氏朝鮮を丁丑約条を結ばせ、属国にした。
- 大報壇-李氏朝鮮王朝が、明の皇帝を祀るために王宮へ建てた祭壇。
- 朝宗岩-宗主国である明王朝が李氏朝鮮に施してくれた恩恵、および「丙子胡乱」で清王朝から受けた侮辱を忘れないために岩に刻文
- 顕節祠-李氏朝鮮王が敗北後に三跪九叩頭の礼で、清国への臣従を誓わせられ、三田渡の盟約をした後も最後まで小中華思想を持って蛮夷「清王朝」への主戦論を主張した人を奉る祠。
- 万東廟-明王朝皇帝の万暦帝と崇禎帝を祀る。名前からも朝鮮の明王朝に対する事大主義を表している。
- 大清皇帝功徳碑-「三田渡の盟約」の内容と清への李氏朝鮮の絶対服従を誓った経緯が刻まれている[9]。
- 慕華館
- 迎恩門
- ソウル迎恩門柱礎
- 独立協会
- 『尊周彙編』-明王朝に対する慕華思想、清国に対する蔑視の内容[10]
- 『三学士伝』-最後まで清国への主戦論を主張したことで打ち首にされた三学士顕彰
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脚注
外部リンク
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