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王玄應

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王 玄応(おう げんおう、? - 621年)は、中国初の人物。鄭の初代皇帝王世充の長男。

生涯

当初、王世充の兄である王世偉とともに宇文化及に従って東郡に駐屯していたところ、李密に敗退して捕えられたが、その後、王世充が李密を破ると、解放された[1][2][3][4]

開明元年(619年4月10日、王世充の太子に立てられた[5][6]

開明2年(620年7月21日洛陽の東城に派遣されて駐屯した。このころ相前後して、唐の羅士信黄君漢史万宝中国語版李勣李君羨中国語版に敗れた。

武徳4年(621年)、虎牢の戦い後に王世充が唐に降伏して以降は、庶人に落とされ、兄弟らとともにの地へ流された。その途中で、王世充とその兄の王世惲は、かねての仇敵であった独孤修徳によって殺害された。王世充のその他の親族は、みな謀反のかどで誅殺された[7][8]

夫人

脚注

参考資料

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