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王璵
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経歴
王紹(王方慶の子の王曒の曾孫)の子として生まれた[2]。若くして礼学を学び、祠祭の儀注を当時に広く求めた。開元末年、玄宗は道教を尊んで、宗廟祭祀を軽視していた。王璵は古今の祀典を引用して、春壇を置き、青帝を国の東郊で祀るよう求めると、玄宗はこれを聞き入れた。このため王璵は太常寺博士・侍御史に転じ、祠祭使をつとめた。至徳元載(756年)、粛宗が即位すると、王璵は太常寺卿に累進した[3]。乾元元年(758年)5月、中書令の崔円が宰相を退任すると、王璵は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[4]。乾元2年(759年)3月、知政事(宰相)を退任し、刑部尚書となった[5]。7月、蒲州刺史を兼ね、蒲同虢節度使(後の河中節度使)をつとめた[6]。上元2年(761年)、揚州長史となり、御史大夫を兼ね、淮南節度使をつとめた。粛宗が南郊での郊祀の礼を終えると、王璵は使持節・都督越州諸軍事・越州刺史となり、浙江東道節度観察処置使をつとめた。本官のまま御史大夫を兼ねた。入朝して太子少保となった[7]。永泰元年(765年)、太子少師に転じた[8]。大暦3年(768年)6月庚寅、死去した[9]。開府儀同三司の位を追贈された。諡は簡懐といった[10]。
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脚注
伝記資料
参考文献
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