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王璵

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王 璵(おう よ、生年不詳 - 768年)は、唐代官僚政治家本貫雍州咸陽県[1]

経歴

王紹(王方慶の子の王曒の曾孫)の子として生まれた[2]。若くして礼学を学び、祠祭の儀注を当時に広く求めた。開元末年、玄宗道教を尊んで、宗廟祭祀を軽視していた。王璵は古今の祀典を引用して、春壇を置き、青帝を国の東郊で祀るよう求めると、玄宗はこれを聞き入れた。このため王璵は太常寺博士・侍御史に転じ、祠祭使をつとめた。至徳元載(756年)、粛宗が即位すると、王璵は太常寺卿に累進した[3]乾元元年(758年)5月、中書令崔円が宰相を退任すると、王璵は中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった[4]。乾元2年(759年)3月、知政事(宰相)を退任し、刑部尚書となった[5]。7月、蒲州刺史を兼ね、蒲同虢節度使(後の河中節度使)をつとめた[6]上元2年(761年)、揚州長史となり、御史大夫を兼ね、淮南節度使をつとめた。粛宗が南郊での郊祀の礼を終えると、王璵は使持節・都督越州諸軍事・越州刺史となり、浙江東道節度観察処置使をつとめた。本官のまま御史大夫を兼ねた。入朝して太子少保となった[7]永泰元年(765年)、太子少師に転じた[8]大暦3年(768年)6月庚寅、死去した[9]開府儀同三司の位を追贈された。は簡懐といった[10]

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脚注

伝記資料

参考文献

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