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王緘

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王 緘(おう かん、生年不詳 - 918年)は、末から五代十国時代にかけての官僚軍人

経歴

盧龍軍節度使の劉仁恭に召し出されて取り立てられた。若くして文才により記室として宿直し、幕僚に任用された。劉仁恭の命を受けて鳳翔府への使者として赴き、帰りに太原府に立ち寄ると、河東節度使の李克用に抑留された。劉仁恭のもとに帰ろうと、李克用の任命を固辞したため、獄に下されて責められ、謝罪して推官に任じられた。のちに掌書記に転じた。李存勗に従って山東を経略し、検校司空・魏博節度副使に任じられた。王緘は博学で文章を作るのを得意としたが、幽州では文士が多く、王緘の名は知られなかった。太原府に入って名を知られるようになり、官位も昇進した。天祐10年(913年)、李存勗の幽州征討に従い、劉仁恭父子が捕らえられると、王緘は李存勗の命を受けて勝報の文章を作った。天祐15年(918年)、胡柳陂の戦いにおいて、王緘は輜重に従って進んでいたところ、乱兵に殺害された[1]後唐同光2年(924年)、司空の位を追贈された[2]

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脚注

伝記資料

参考文献

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